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2010年11月

2010年11月30日 (火)

雪が降るように

昨日は、雪が降るような落葉でした。いよいよ明日からは12月。どんな姿になっていくのでしょうか?Keyacky101130

2010年11月29日 (月)

紅葉が深まって・・・・

欅やハナミズキはかなり葉を落としました。求道者Momiji101128の庭にある紅葉Keyacky101129 が、朝日に輝いてます。

2010年11月28日 (日)

洗礼式

  今日からアドベント、待降節に入ります。主イエスキリストのご降誕を待ちわびる季節、主を待ち望む幸いを味わうときです。

教会では、洗礼式が行われ、2名の中学生、一人の高校生、そして一人の男子学生が洗礼の恵み預かりました。若い人たちが、キリストの命にあふれた生涯を送るよう、祈ります。

ハンドベルの練習は、初めて礼拝堂で行われました。本番まで、あと2回の練習です!

Skeyacky101128Handbel10

イルミネーションは輝いていても、心が闇だったら・・・。

2010.11.28(霜月) NO.306 

闇の中の光 ヨハネ1:14-18

暗闇を人の手によって明るくするために最初に用いられたのは、たき火だったそうです。それから「明かり」は大きな進歩を遂げ、今ではLEDという新しい発光ダイオードが至るところで使われるようになっています。

そんな中ですが、和蝋燭を点した燭台や手燭は、捨てがたい趣があります。お茶会の一つである夜噺(ヨバナシ)では、この手燭で暗い足下を照らし、茶室に入ることになります。

クリスマス、日本語では降誕祭といいますが、これはイエスキリストの誕生を祝う日です。神である方が私たちと同じ人となってきてくださったときでもあるのです。人間の思いを超えた、神様のしてくださるみわざです。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」  ヨハネ

1:14

このお方は、まことの光、いのちの光として描かれ、暗闇のような中でも立派に歩むことができると約束しています。

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」ヨハネ

1:4

イエスの生涯を聖書を通してみるとき、確かに苦難の生涯でしたが、愛と慈しみを人々に示され、イエスに出会った人たちは恵みを受け、イエスの証し人ともなりました(15-17)。また目に見ることのできない神様を、イエスによって知ることができるのです(18)

しかし人々は、このイエスを受け入れませんでした。それは、今の時代にも通じるものがあります。神様を抜きにしても暮らしていけるではないか、クリスチャンであっても、苦しみを味わっているではないかなど、否定的なことを聞かれることでしょう。神がいてもいなくても何の変わりもない、とも言われそうです。

21世紀になって、最初の10年がもうじき過ぎようとしています。果たして私たちの今の時代は、20世紀に比べ本当に明るくなったのでしょうか。なるほど照明器具は進歩を遂げましたが、人の心はますます暗闇に向かっているような状況ではないでしょうか?他の人や家族、他国のことを思わず好き勝手に振る舞うことは、心の中にある闇から出ていることなのです。

聖書の一言が、私たちの闇を照らす光となり、罪を示して悔い改めに導き、光の中を歩む平安な生涯へと導いてくれるのです。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」 詩篇

119:105

2010年11月27日 (土)

いい天気です

今日はいい天気で、小春日和になりそうとのこと。ケヤッキーも、少しうれしそうですね。もうじき、ハンドベルの練習に子ども達がやってくるでしょう。

横浜に引っ越された方からいただいたトサミズキも色づいてます。

Keyacky101127 Tosa_mizuki2

2010年11月26日 (金)

リョウブも色づいてます

昨晩は雨がずっと降っていました。落葉も、半分ほどになったでしょうか?

リョウブもきれいなオレンジから赤い色になっています。

Keyacky101126 Ryoubu

2010年11月25日 (木)

朝は冷え込みました

朝のミーティングに行こうとして車に乗り込んだら、フロントガラスがうっすらと凍っていました。いよいよ冷え込みがきつくなってくるのでしょうか。

祈り会後は、クリスマスの飾り付けをしていただきました。

Keyacky101125

2010年11月24日 (水)

コブシも色づいてます

雨の上がった今日は、青空です。ケヤッキーも、澄み切っている感じですね。

コブシも色づき、落葉してきました。

Keyacky101124  Kobushi101124_2

2010年11月23日 (火)

雨にも負けず~さいたまシティーマラソン

冷たい雨の中、たくさんの葉っぱが散っていきました。でも、ケヤッキーはめげることなく、今日も立っています。

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そんな雨の中「さいたまシティーマラソン2010人形の里ロードラン」で、10㎞完走しました!これがマラソン大会の初参加。槻の森クラブのNさんに誘われての、レースでした。雨の日対策を教えて頂き、今まで一番早いタイム、57分13秒で227位でゴール。ま、参加者のほぼ真ん中の成績でした。奉仕スタッフのボーイスカウトリーダーの方に、撮っていただきました。Marathon1

何とか自分も雨にめげることなく、走り抜きました。

さあ、これから落ち葉を掃き集めるぞ。Keyacky1011231_2

2010年11月22日 (月)

ハナミズキも

今日は曇りです。

丘の上には、ケヤッキーの他にも紅葉している木々があります。その一つが、アメリカハナミズキ。十字架の形をした真っ白な花を咲かせますが、秋から冬は、真っ赤な実をつけ、葉も赤くなります。キリストが私たちのために流してくださった、尊い血潮を象徴しているようです。

Keyacky1011222_2Hanamizuki

2010年11月21日 (日)

草は枯れ・・・・

日曜日の朝です。今日も、み言葉が語れます。

「草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」 1ペテロ1:24,25

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なぜ正しい人であっても苦しみを受けるのか?

2010.11.21(霜月) NO.305 

主のみ名をたたえよ ヨブ1:13-20

悪いことをしていない、むしろ善良な人に、自らの責任ではない苦しみを味わうという理不尽なことがどうして起きるのでしょうか?ヨブ記は、まさにこのテーマを扱った、聖書の物語です。

このヨブ記の書かれた年代は、聖書自体にそれを示す箇所はありません。イスラエルの王国時代、あるいは他の国の捕囚となった苦しみの時代に書かれたといわれています。そうであれば、この書は、民族の苦難をその背景に持っていると言えるでしょう。

ヨブは、ある日突然「喪失」の体験をします。飼っていた家畜たち、若い使用人、そして自分の息子と娘も失ってしまうのです。さらに体中に悪性の腫物ができて健康を失い、全く絶望的な状況におかれてしまいました。それでも彼は罪を犯さず、神様に愚痴をこぼすこともありませんでした。そんな夫を見て、妻は「神を呪って死んでしまえ」と言うほどでした。喪失の体験は、生きる力を奪うことです。

そんなヨブに三人の友人が訪ねてきます。最初はあまりのひどさに何も語ることができずにおりましたが、次々に言葉を掛け、ヨブの苦しみを和らげるどころかかえってひどいことになっていきます。そこにもう一人の友人が現れ、あろうことかこの3人をも非難してますますヨブを追い詰めることになってしまいます。結論から言えば、このような苦難の中でヨブは砕かれ、救い主に自らを明け渡します。

「私は知っている。 私をあがなう方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たされることを。」  ヨブ19:25

財産や健康を取り戻し、子ども達も与えられたのです。夫をののしった妻は、ずっとヨブに付き添っていたようです。これは唯一幸いなことであったと言えます。

この物語を、人は自分に当てはめて慰めを得るでしょうし、またある方は「自分はヨブのように強くはない、神を呪って死んでしまうかもしれない」と否定的にとらえるかもしれません。「こんな話は作り事」と、はじめから突き放してしまう方もあるでしょう。

ここに、このヨブのような生涯を送った方がいます。それが、主イエスキリストです。人として生まれ、私たち同じ喜びや苦しみを経験しました。伝道の生涯においては、サタンの試みから始まり、人々の手に引き渡され、十字架につけられるという悲惨な苦しみを味わったのです。それは、私たち人間の罪から出た神の罰を受けるという苦しみでした。しかしその苦難の中で父なる神様に従われ、私たちのために救いをの道を開いてくださったのです。

苦しみの中でも主を認める、主のみ名をたたえる力を、私たちも受けることができますように。あなたには、この苦しみを味わった主が共にいてくださるのです。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。   ヘブル12:1

2010年11月20日 (土)

朝日を浴びるケヤッキー

落ち葉は、近くで畑を耕している方に渡り、肥やしになり、やがておいしい野菜になります。今日も良い天気で、朝日を浴びて輝いていました。

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2010年11月19日 (金)

夕子さん、激走!ジブラルタルウルトラマラソン

  春日部の市民ランナーの域を超えた、伊藤夕子さんが、ジブラルタルウルトラマラソンを激走しました。伊藤さんは、大凧マラソン3連覇は言うに及ばず、サロマ湖ウルトラマラソン3位、神宮24時間チャレンジ(神宮外苑を24時間走り続けて、その距離を競う)優勝、そして11月7日に行われたジブラルタルウルトラマラソン世界大会で、完 走しました。今回は、ご本人としては不満足な走りだったそうですが、それでも立派な走りでした。女子団体はドウドウの銅メダル。男子は、個人も団体も金メダルを取り、日本人のすごさを改めて世界に示した大会となりました。

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地理の時間に「ジブラルタル海峡」という名前を聞いてはいましたが、ぐっと身近になりました。スペイン国にありながら、イギリスの海外領土と言いますから、きっと重要な場所なんでしょうね。なんと、野生の猿も走っているとか。

完走メダルと銅メダル、そして、ジブラルタルを駆け抜ける伊藤さんの写真をアップします。つぎは24時間の国際大会があるとのこと、カスカビアンの誇りとして、これからも応援しますよ!

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葉っぱのケヤッキー

ミュージカルにもなった「葉っぱのフレディ-」の季節は、まさに今頃。命の尊さを感じる、すてきな作品と聞いています。

丘の上には、立派な大きな木が、3本あります。その一本が、埼玉県の木である欅。今回、「ケヤッキー」と名付けて、これからどうなっていくのかお伝えしたいと思います。和室から日本庭園に出る玄関からの撮影です。

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2010年11月15日 (月)

主のみ心なら 丘の上礼拝メッセージ

2010.11.14(霜月) NO.304 

主のみ心なら ヤコブ4:1317

どういうわけか、年齢を重ねるに従って、時間の経つのを早く感じるようになります。去年より今年の方が、あっという間に一年が過ぎてしまったと感じるのです。皆さんはどのように感じられていますか?これにはいくつかの理由が考えられていますが、面白いことでもあり、歳を取るとともに一日一日を大切に過ごしたいという思いに駆られる動機ともなります。

人は常に何かをしようとしています(13)。若い人たちにとって、志を持ってことに挑むということは、すばらしいことだと思います。また、何歳になっても常に新しいことにチャレンジする気持ちを持ったり、自らを高めようとすることも、幸せなことと言えます。今年99歳になられた日野原先生は、「新老人の会」を立ち上げ、自らも89歳の時に「葉っぱのフレディー」という絵本を元にして脚本を書かれ、ミュージカルとして上演されました。常に前向きです。

このように、未来に向かって志を持つことはすばらしいですが、人の命はまた、はかないものです。明日のことはわからないのです(14)

「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」

箴言27:1  

明日のことがわからないということは、必ずしも一日を好き勝手に過ごし、自暴自棄になることではありません。命が神の営みの中にあると知る時、思い煩うことのない平安が心に宿るのです。今日という日を、大切に過ごすようになるのです。主は言われました。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」                      マタイ6:34

これは自分の運命が神によって定められているから、自分は何もできない、ということでもありません。むしろ、神様の守りがあるので、大胆に祈り、前向きに進むことができるという確信ともなるのです(15)

ある婦人は、ご自分のご主人を何とかして日曜日の礼拝に連れてきたい、一緒に神様を礼拝したいと、結婚当初から願い、祈っていました。そしてついにご主人と一緒に礼拝に集ったとき、これまでの疲れが出たのでしょうか、礼拝の途中で倒れて病院に運ばれてしまったのです。ご主人も教会を出て、病院に付き添いました。しかし次の週、ご主人は自ら礼拝に集い、しっかりと説教を聞き、礼拝を守ることができたのです。そればかりでなく、教会の方々との交わりを持てるようになりました。彼女の祈りは、自分の思い描いた形ではなかったかもしれませんが、確かに聞き届けられたのです。

人の愚かさは、自分の命が神様によって守られている、導かれている、支配されていることを知らずに、何でも自分でやったと思い上がっていることです(16)。そして死後の世界はないという、不遜な態度です。人の命はお金や物そのものにはないこと、誰のために富を蓄えるのか、このようなことをよく考えなくてはなりません。あなたの日々の営みは、本当に命へと続くものなのでしょうか?それとも、ただ自分の欲望を満足させるものに過ぎないのでしょうか?

17節は、当時の格言であったかもしれません。なすべき正しいこととは、神を信じ、その方に人生の王座を占めていただき、導いてくださることを願うことです。

新島襄(幼名:七五三太)は、漢訳の聖書から天地を造られた神のおられることを知り、伝道者、教育者として生涯を全うしました。46歳で亡くなりましたが、今日の同志社大学の礎を築き、多くの優れたキリスト者を世に送り出しました。主のみ心のなることを、何よりも喜びとした人でした。主のみ心がなる生涯を、私たちも送りたいのです。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。               伝道者12:1

2010年11月13日 (土)

ハンドベルの練習が始まりました

12月の丘の上LSCクリスマスのために、ハンドベルとトーンチャイムの演奏会に向けて、いよいよ練習が始まりました。指導は、音大卒業で音楽療法でも活躍されている、由里子先生がしてくださっています。子どもと大人のコラボ演奏は、とてもすてきなクリスマスプレゼントになることでしょう。

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2010年11月 9日 (火)

国禁を犯して、アメリカへ

8日~9日にかけて、合同牧師会が伊香保でありました。その帰りに、東地区の先生方と、「安中教会」を訪ねました。突然の訪問にもかかわらず(通常は予約がいる)、地元の史跡ガイドの方から、丁寧に説明をしていただきました。

明治時代の初期、教育において大きな影響を与えた、新島襄ゆかりの教会です。江戸で生まれた新島襄(幼名は七五三太(シメタ))は、まさに大河ドラマとなっている龍馬達がいた時代の人物です。彼は蘭学修行中に漢訳の聖書によって神を知り、国禁を破ってアメリカに渡り(1865)、10年間の学びの後帰国し、これからの日本のために、伝道とキリスト教を土台とした学校の設立に生涯を掛け、46歳で死去しました。安中教会の設立の種まきをしたのでした。教会と新島襄旧宅をたずね、幕末から明治にかけて、激動の時代を駆け抜けた一人のキリスト者のスピリットにふれるSdscf2780_2 Sdscf2791 時となりました。

教会全景と、3階鐘楼に取り付けられているベル。

2010年11月 1日 (月)

ツリーハウスでおもてなし

10月最後の日曜日、31日の午後に丘の上教会にあるツリーハウスで、お茶のおもてなしをいたしました。あいにくの曇り空でしたが、そんな天気をものともせずに、ガールスカウト埼玉16団の団委員長、スカウト、リーダーさん、そして茶道の指導をしてくださる先生がお越しくださいました。私のお点前の後、10団のスカウト、ガールさんのかわいいスカウトがお茶を点ててくれました。春日部7団の団委員長さんとリーダーの方も来られて、ツリーハウスは満杯。ぎゅうぎゅう詰め合いながらの、お茶会となりました。だんだん寒さを感じるところで、お開き。その後は、さらに上を目指すスカウト達が木登りに挑戦!いつもチャレンジしていく気持ちを持っているのは、いいことですね。冷えた体を暖炉の火で温めていただき、本当にお開きとなりました。
寒い中お越しいただき、ありがとうございました。当分ツリーハウスはこのままですので、ご希望の方はいつでもお越しください。

いのちを与える

2010.10.31(神無月) NO.303 

春日部福音自由教会 山田豊

いのちを与える ヨハネ10:7-18

本日は4つの会堂で、4人の講師が一つのテーマの元でそれぞれにみ言葉を語っています。そのテーマは今年度の年間聖句にある「受けるよりも与える方が幸い」というものです。これは難しいことですが、いろいろな場面で見られることです。いただいたものを「お裾分け」したり、畑で採れたものをあげたりします。献血をしたり、重い病のために自分の臓器を提供するといったことは、命に関わる与える幸いと言えるでしょう。

しかし命そのもを与えることは、そう簡単にできることではありません。クリスチャン作家である三浦綾子さんは、「塩狩峠」の中で自分の命を与えた愚かな人がイエスキリストであり、この方を信じることによって永遠の命を得ることを、路傍で説教する牧師に語らせています。

聖書には、このイエスキリストがどのような方であるかということを、いろいろなたとえや比喩で表わされています。その中でもよく知られたたとえが本日の箇所にある、「わたしは良い羊飼いです」という言葉でしょう。これは、羊飼いの飼っている羊が私たち人間の姿であるということを示唆しています。

羊が安らかに過ごせるのは、羊飼いに守られて牧場にいるからです。この牧場から迷い出た羊は、自力では帰ってくることができません。迷った羊は、外敵に襲われて殺されたり、大きなけがをしてしまうこともあるでしょう。人間にとって安らかに過ごせるのは、神様と共にいること、神様の愛にとどまっているときです。私たちの間に争いや裏切り、時には他の人の命を奪うなことが起きるのは、神様の戒めに背き、その愛の中から飛び出してしまったからです。神様から離れたところに平安はなく、死があるのです。

良い羊飼いは、羊のために命を捨てることをいといません。それは羊のことを心に掛けているからです。母親はその産んだ子どもを顧みるでしょう。しかしそんな母親に捨てられるような悲惨なことがあっても、イエス様はあなたのことを顧みているのです。

イザヤ49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。

イエス様はここで、「わたしは羊の門です」とも言われました。羊飼いであることと、門であることが同じであるというのです。今日でも大切な建物の門を警護している人は、その門と一体であるかのように、出入りする人を監視し、その任務に命をかけています。

命への道は、イエスキリストがご自分の命を捨てられることによって開かれました。イエスご自身が、道となってくださったのです。十字架上で強盗に約束された「あなたは今日私と共にパラダイスにいます」という言葉は、ヘブル語に訳された聖書を見ると「私と共にエデンの園にいます」となっています。天地創造の時に人間のために用意されたエデンの園は、イエスキリストの故に新しい安息の場として回復されるのです。

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

神様の救いは、特定の人たちに限定されるものではありません。人種や地位や立場などいろいろな違いを超えて一つになるために、イエス様がご自分の命を与えてくださったのです。

良き羊飼いであり、門であり、そして道であるイエスキリストを通して、安息の場に立ち返りましょう。

ローマ3:23 罪から来る報酬は死です。しかし神のくださる賜物は、私たちの主キリストイエスにある永遠の命です。

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