フォト
無料ブログはココログ

« ハンドベルの練習が始まりました | トップページ | 葉っぱのケヤッキー »

2010年11月15日 (月)

主のみ心なら 丘の上礼拝メッセージ

2010.11.14(霜月) NO.304 

主のみ心なら ヤコブ4:1317

どういうわけか、年齢を重ねるに従って、時間の経つのを早く感じるようになります。去年より今年の方が、あっという間に一年が過ぎてしまったと感じるのです。皆さんはどのように感じられていますか?これにはいくつかの理由が考えられていますが、面白いことでもあり、歳を取るとともに一日一日を大切に過ごしたいという思いに駆られる動機ともなります。

人は常に何かをしようとしています(13)。若い人たちにとって、志を持ってことに挑むということは、すばらしいことだと思います。また、何歳になっても常に新しいことにチャレンジする気持ちを持ったり、自らを高めようとすることも、幸せなことと言えます。今年99歳になられた日野原先生は、「新老人の会」を立ち上げ、自らも89歳の時に「葉っぱのフレディー」という絵本を元にして脚本を書かれ、ミュージカルとして上演されました。常に前向きです。

このように、未来に向かって志を持つことはすばらしいですが、人の命はまた、はかないものです。明日のことはわからないのです(14)

「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」

箴言27:1  

明日のことがわからないということは、必ずしも一日を好き勝手に過ごし、自暴自棄になることではありません。命が神の営みの中にあると知る時、思い煩うことのない平安が心に宿るのです。今日という日を、大切に過ごすようになるのです。主は言われました。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」                      マタイ6:34

これは自分の運命が神によって定められているから、自分は何もできない、ということでもありません。むしろ、神様の守りがあるので、大胆に祈り、前向きに進むことができるという確信ともなるのです(15)

ある婦人は、ご自分のご主人を何とかして日曜日の礼拝に連れてきたい、一緒に神様を礼拝したいと、結婚当初から願い、祈っていました。そしてついにご主人と一緒に礼拝に集ったとき、これまでの疲れが出たのでしょうか、礼拝の途中で倒れて病院に運ばれてしまったのです。ご主人も教会を出て、病院に付き添いました。しかし次の週、ご主人は自ら礼拝に集い、しっかりと説教を聞き、礼拝を守ることができたのです。そればかりでなく、教会の方々との交わりを持てるようになりました。彼女の祈りは、自分の思い描いた形ではなかったかもしれませんが、確かに聞き届けられたのです。

人の愚かさは、自分の命が神様によって守られている、導かれている、支配されていることを知らずに、何でも自分でやったと思い上がっていることです(16)。そして死後の世界はないという、不遜な態度です。人の命はお金や物そのものにはないこと、誰のために富を蓄えるのか、このようなことをよく考えなくてはなりません。あなたの日々の営みは、本当に命へと続くものなのでしょうか?それとも、ただ自分の欲望を満足させるものに過ぎないのでしょうか?

17節は、当時の格言であったかもしれません。なすべき正しいこととは、神を信じ、その方に人生の王座を占めていただき、導いてくださることを願うことです。

新島襄(幼名:七五三太)は、漢訳の聖書から天地を造られた神のおられることを知り、伝道者、教育者として生涯を全うしました。46歳で亡くなりましたが、今日の同志社大学の礎を築き、多くの優れたキリスト者を世に送り出しました。主のみ心のなることを、何よりも喜びとした人でした。主のみ心がなる生涯を、私たちも送りたいのです。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。               伝道者12:1

« ハンドベルの練習が始まりました | トップページ | 葉っぱのケヤッキー »

礼拝メッセージ」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 主のみ心なら 丘の上礼拝メッセージ:

« ハンドベルの練習が始まりました | トップページ | 葉っぱのケヤッキー »