フォト
無料ブログはココログ

« 静かな降誕祭 | トップページ | 温泉でおじやを »

2010年12月26日 (日)

今年もいよいよ終えようとしています。

2010.12.26(師走) NO.309 

自分の日を数える 詩篇90:117

365日ある1年間も、残すところわずかとなりました。歳を取るに従って、月日の経つのを早く感じるのはそれなりの理由があるらしいですが、そのことを前向きにとらえることはなかなか難しいようです。

地球から遠く離れた惑星までの距離や、ロケットをきちんと制御できる時代ですが、果たして人は自分の人生の長さを正しく測り、正しく生きていくことができているでしょうか。

詩篇90篇は、「神の人モーセの祈り」という表題がついてます。このような表題がつけられることによって、この詩篇90篇が優れた詩であり、また祈りであるということを表しているように思います。この詩篇は、私の心にとまっている聖書箇所のひつであり、見舞いにいったときや葬儀の時に開く箇所ともなっています。

12節では、この天地を造られた神様を賛美しています。「生み出す」という言葉から、母としての神の御性質を表していることを感じることができます。

36節は、人の命のはかなさ、無常観が歌われています。イザヤ40:68にも同じようなみ言葉があります。

「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

このあたりは、平家物語や徒然草の冒頭に歌われているように、日本人として共感できるところではないでしょうか。

しかし711は、厳しい言葉が続きます。人の一生は神の怒りの中に沈んでいく、人の死は神の罰の結果であるとでもいっているようなみ言葉です。信仰者をはらはらさせるみ言葉ではないでしょうか。日本人は、おしなべて美しく死んでいくことに関心を持ちますが、死そのものとしっかり向かい合っていないように思います。聖書は、神に背いた人間の罪が、死をもたらしたと告げるのです。お寺に育った私の母は、人が死ぬのは運命ではなく神から離れた罪の結果であることを知って、悔い改めてイエスキリストの救いをいただきました。

 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:23

1217は、詩人の祈りですが、神さまの前にへりくだり、神さまのあわれみと愛の故に祝福された人生を求める願いとなっています。今年も年末年始に、多くの人たちが神社仏閣に詣で、家内安全商売繁盛を願い求めることでしょう。それは私たちの持つ自然な願いだからであり、キリスト者も幸いな一年を送りたいと願います。

ここで大切なのは、この90篇は私たちを生かし、またその命を取る権威を持っておられる神様の前に謙遜になって、自らの生涯を正しく送ることを願う、ということです(12)。ここに、人の命のはかなさを知る日本人の思いをくみつつ、前を向いた人生の道があるのです。

新しい2011年の一日一日を、大切に数えて歩んでいきたいものです。

« 静かな降誕祭 | トップページ | 温泉でおじやを »

礼拝メッセージ」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 今年もいよいよ終えようとしています。:

» FXの1年 [面白いぞFX]
FX [続きを読む]

« 静かな降誕祭 | トップページ | 温泉でおじやを »