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2011年1月30日 (日)

こんな大雪でも、春になれば雪はとける

2011.1.30(睦月) NO.313 

救いの喜び イザヤ35:110

過日、トリノオリンピック女子フィギュアスケート金メダリスト、荒川静香さんを取り上げた番組を見ました。「スケートを楽しみたい」という思いがこみ上げてきたとき、それまでの重圧から解放され、オリンピックにおいては会心の演技ができたと話していたことが、印象的でした。

イザヤが南王国ユダで預言者としてその働きをした時代は、強大なアッシリア帝国からの脅威がありました。国家滅亡の危機が迫っているにも関わらず、王をはじめ民衆が心砕かれて神に立ち返り、結果としてエルサレムは蹂躙されてしまいます。

私たちの国では国会が開かれており、首相の所信表明演説に始まり各党の代表者による質問の様子が中継されました。そういったことを垣間見て、どのように思い、何を感じられたでしょうか。「この国はこれからどうなるのだろうか?」という不安を抱く人もあったかもしれませんね。個人の生活においても、希望を持つ部分よりは、不安な要素の方が多いかもしれないのです。

イザヤは、国家存亡の危機にあっても、この国が回復されることを、自然界の営みにたとえて預言しています(12)。どの国でも、花が一斉に咲くときというのは、人間にも何かしらの力や希望を与えるものです。長い冬を過ごした人にとっては、黒い土が見え、花が咲き誇る光景は、うれしいものです。

そこで、体も心も強くするようにと、命じられています(34)4節の復讐とは、神による正しい裁きのことであり、人々の救いを意味します。こうして人々が神に立ち返って救われるとき、人間も自然界も癒され、回復されていくのです(5-7)。ここに記されていることが、文字通り起こることがあります。奇跡的に病が治ったり、荒れ地が開墾されて作物の実りを見る豊かな地になったり、人が住んで文化的な生活のできる環境が整えられていくことが起きるのです。

このようなことは、私たちの神さまのとの交わりという霊的な生活、あるいは、目に見えない精神的な生活の中でも起こることです。絶望の中にあった人が生きる希望を持ち、悔い改めて神さまに立ち返ることを意味します。

これは神さまに通じる「大路」といえます(89)。それはまた、聖なる道とよばれ、神によってあがなわれた人が通る道なのです。主イエスキリストは、私たちを罪から救い神さまへと至る道となってくださったのです。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。  ヨハネ14:6

ここに真の喜びがあります(10)。シオンは来るべき神の国を表しています。主よってあがなわれた者は、その方とお会いできることを喜びとして、過ごすことができるのです。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

1コリント13:12 

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