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2011年1月23日 (日)

神さまの召しは、変わることがないのか?

2011.1.23(睦月) NO.312 

苦難の中で立つ イザヤ6:-13

昨年倒木した鶴岡八幡宮の大銀杏が、根元からひこばえがたくさん出て関係者をホットさせていると言うことです。当初は再生不可能とまで言われたそうですが、今となってはその生命力を受け継ぐシンボルとなっています。切り株を、しっかり残したからですね。

国家存亡の危機にあった南王国ユダで、イザヤは預言者としての召し(コーリング)を受けました。誰を遣わそうかという、神の声に応えたものでした(8)。今でもこのようなチャレンジを受け、将来神さまのために働きたいと心を定めた人が多くいることでしょう。しかし神様の召しは、牧師や宣教師にだけ与えられるものではありません。あなたが今いるところで、イエスキリストの証人となること、与えられた勤めに励むことも、神の召しに応えて生きることと同じです。

イザヤは預言者として神の言葉を語ろうとします。ところが、その言葉に耳を貸すことなく、心を堅くするように言えというのです(910)。これは一体どういうことでしょうか。民に神の言葉を聞いてほしいという願いの逆説的な言い方かもしれません。しかしこれは、イエスさまが引用されているように、神の言葉を聞く人々の頑なな心を表していることなのです(マタイ13:1415)。イザヤにとっては、まことに不条理なことだったでしょう。神様の召しに応えて立ったとしても、これでは意味がないではないかと、働きを放棄してしまうような状況です。「いつまでですか?」と問うたのも無理はありません。けれども、私たちもまた、神の言葉に聞かない、神の御心を拒絶するという頑なな心を持っているのです。

だれか、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに「それは正しい。」と言うようにさせただろうか。告げた者はひとりもなく、聞かせた者はひとりもなく、あなたがたの言うことを聞いた者もだれひとり、いなかった。 イザヤ41:26

彼が立ったとき、その背景にあるのは「死」でした。イザヤはウジヤ王が死んだ年に、聖なる神を見、召されたのです(13)。また彼は、自分自身に絶望する体験、いわば、自分に死ぬほどの落ち込み経験をしました(5)。また、他国の侵略を受けて町は荒廃し、人々は連れ去られ、ユダ王国が滅亡すると告げられました(1113)。イザヤの働きは、このような苦難の中で、希望のない状況の中で、始まったのです。

しかし神さまは、「切り株」を置いてくださっています(13)。神さまの言葉を聞く人たちがいたのです。北王国において、エリヤが神につくものは自分しかいないと絶望したとき、神を愛する者が残されていることを知ったのと同じです(1列王記19:18)

しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」

あなたは、周りの状況が整っている時だけ、ご自分の仕事や奉仕につとめるのでしょうか?無力な自分に絶望したから、もう何もできないのでしょうか?神につながっているなら、また、神の御心に根を下ろしているなら、あの大銀杏の例を挙げるまでもなく、そこから芽が出て葉をつけ、成長して、豊かな実を結ぶことができるのです。神の召命に応えていこうとするその心の内に、神さまの力が秘められているのです。

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