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2011年2月

2011年2月28日 (月)

かんばいとアンコウ

久しぶりの、ブログです。

27日の日曜日を挟んで、二つのツアーに行ってきました。

26日は福祉委員会主催のかんばいツアー。富岡製糸場を見学した後、秋間梅林、そして安中教会を見学しました。新島襄ゆかりの教会で、井波さんが「寒梅」を吟じてくださいました。まるで、時空を越えて二人が一体になったように感じ、私もこの漢詩に詠われている寒梅のようでありたいと思わされました。観梅と合体した、ツアーとなりました。

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庭上一寒梅

笑侵風雪開

不争又不力

自占百花魁

28日は、東地区の先生方と、北茨城ツアー。冬の味覚アンコウ鍋をいただき、五浦海岸を見ながら、しばしコーヒータイムをもちました。荒波の寄せる岩場には、岡本天心の六角堂が見えました。彼の弟子もこの地から大平洋を見、新しい日本を夢見ていたのかもしれません。

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パソコンの画面を離れ、神様の造られた世界に身を置き、花や海を見る幸いを、しばし味わったひとときでした。

これからの世界を見る目も、開かれたい!

2011年2月20日 (日)

庭上一寒梅

2011.2.20(如月) NO.315 

主のことばが成る エレミヤ1:112

エレミヤが神の召しを受けて活動した時代は、ヨシヤ王の治世の第13年、紀元前627年から、バビロン捕囚後の583年頃であったといわれています。(13)

彼がいた時代は、アッシリア帝国によって北イスラエルが滅ぼされ、そのアッシリアも新バビロニア帝国に滅ぼされた、イザヤがいたときに勝る激動の時代でした。そのような中で、神の言葉を語り、神に立ち返ることを訴え、ユダの国が生き延びるにはバビロニア帝国に服従する他はないと告げました。しかし彼の言葉は受け入れられず捕らえられ、そのバビロニアによって国は滅ぼされ、同胞が異国へ引かれいていくのを、痛恨の極みをもって見なければなりませんでした。

彼は、「涙の預言者」と言われています。民の頑なな心に涙し、国の滅亡を語らなければならなかったからです。しかし之は、同胞を思うあわれみの心からでたことでした。私たちの主がもっておられたと、同じ心だったのです。

 群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。マタイ9:36

エレミヤは、神様から直接預言者として声を掛けられ、任命されました(45)。「召命」といいます。預言者にかぎらず、神様から特別な働きのために選び出されること、人の側から見れば「天職」を授かったと言ってもいいかもしれません。

ところがエレミヤは、自分は若く経験が無く、何を語って良いかわからないと言って、その召命を拒否します。かつて、モーセもイザヤも神の召しを素直に受け入れられませんでした。新約聖書には、イエスの母となったマリアも、主の弟子となったペテロも同じであったと記されています。しかしこれらの人々はみな、神様の召命を受け入れ、語るべき言葉を授かるのです(69)

ここで大切なことは、神がエレミヤを実によく知っている、ということです。神様は、私たち一人一人を、私たちが生まれる前から知っているのです。そして私たちを罪の中から救い出し、神の子としてくださるというもう一つの召命を与えてくださったのです。ここに、人の理解を超えた深い神様の愛があります

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。エペソ1:4

人は苦難の中で立たなければならない時、 難しいと思われることを引き受けなればならないという場面に直面します。そのようなときに大切なことは、神様の言葉がなる、すなわち、神の御心がなるという信仰、神様への信頼をもつことです。それが1112にある象徴的な出来事です。

アーモンドの花は、イスラエルにおいて12月ごろ、他に先だって咲く植物です。日本で言えば、寒梅です。丘の上の梅も、実際に一番早くこの冬に花を咲かせました。同志社大学の創立者と後に言われた新島襄は、終焉の地大磯で、一つの漢詩を読みました。自分を冬の寒さの中で凛として咲く梅ににたとえた「寒梅」です。その最後の言葉は、「自ずから百花の魁を占む」とあります。一本の梅は、力むことなく自然にあらゆる花のさきがけとなったという意味です。

神のことばは、神様のみこころの内になることをどこまで信じていけるか、その忍耐が私たちに求められているのです。

 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。  1ペテロ1:2425

2011年2月14日 (月)

サブスリー、表彰さる!

春日部のサブスリーこと、伊藤夕子さんが、表彰されました。

さる2月5日、市内で体育賞の授賞式があり、夕子さんは最優秀選手としての表彰でした。立派な賞状と楯など、之まで参加したレースにはない立派なものだったそうです。サロマ湖ウルトラマラソン、24時間神宮外苑チャレンジ、ジブラルタルで行われたウルトラマラソンの国際大会などが評価されたわけです。

ご本人はうれしいけれども恥ずかしさもある、表彰式となったと思います。おめでとう!

今年初のレースとなった館山若狭マラソンでも、女子の部で堂々の総合優勝!記録的には昨年より少し落ちたそうですが、立派なことです。

5月は大凧マラソン大会。皆さんもエントリーして、一緒に走りましょう。レースのあとは、夕子さんと一緒にランチタイム。いいですね~~。私は、ハーフでサブ2.5(?)を目指します。

メジロが来た

今日は、とてもさむい一日でした。朝から白いものが落ちてきたので、先週落とされた枝を、復活の庭に上げました。昨日もやってもらっていたので、助かりました。

午後目白が三羽、教会玄関に植えられているあじさいに来ていました。急いでデジカメを取りに行って撮った写真です。よく見えないのが残念です。

このあと、ダンプが来て、三羽ともヤマの方に飛び去ってしまいました。梅の木に泊まっていてほしかったんですが・・・・。

このところ、きれいな野鳥をよく目にします。春の近いのを感じますね。

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2011年2月10日 (木)

ばっさりと

冬の庭作業は、特別なことがありません。普通は・・・。

しかし今年は、欅とクヌギの枝落としを致しました。光造園さんが入ってくれて、3日間にわたり、ばっさりと大きな枝を落としました。これは、枯れた枝が強風で折れたり、風通しが悪くなって木に負担を与えないための処置です。時には、このような痛々しいことが、必要なのですね。

わたしの枝で、実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。ヨハネ15:2

イエスさまは、葡萄の木にたとえて、実を結ぶ秘訣を語ってくださいました。痛みが伴っても、切り落とさなくてはならないものを、このさい、ばっさり取り去っていただきましょう。

ケヤッキー ビフォー&アフター

 

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クヌギ ビフォー&アフター

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2011年2月 6日 (日)

イエス傷が人を癒すとは

2011.2.6(如月) NO.314 

だれが信じたか イザヤ53:112

本日の箇所は、イザヤ書にある「僕(しもべ)の歌」の第4番目のものであり、苦しみを受ける僕の姿が描かれています。この僕とは救い主メシヤのことであり、新約聖書の引用によって、それはイエスキリストであると理解することができます。あえて言えば、本箇所における「彼」をイエスキリストにおき替えて読んで良い、それがイザヤの語るメッセージをきちんと受け止めることになると言えます。

52:1315は、本箇所の序論となっています。これから語られる僕は、人々が思うような立派なものではなく、むしろさげすまされるような存在であり、それでもなおその方を信じることができるのか、という挑戦的な訴えを感じるほどです。

23節は、苦難の僕の姿が描かれています。見るからに小さくひ弱で、人々は顔を背けるほど惨めなものです。映画「パッション」では観客が目を背けるほどの残酷な仕打ちで描かれていましたが、まさにそのような苦しみをキリストは受けられたのです。ヨハネも世はイエスキリストを受け入れ無かったことをはっきりと著しました。

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

ヨハネ1:11

46節は、その僕をどのように人々が理解したか、を語っています。そのような苦しみを受けるのは、因果応報によって僕自身によると思ったのですが、じつは人々の神に背いたその罪を代わりに負ったためでした。罪あるものは、神に裁かれなくてはなりません。本来ならば、人々、すなわち私たちがその罰を受けるのですが、この僕が代わりに神の罰を受け、そのために私たちに平安と癒しが与えられたのです。この平安とは、神様との正しい交わりが回復し、神に造られた人としての尊厳が回復したことを示します。迷っていたものでしたが、自分らしく生きる道へと、連れ戻されたのです。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。      1ペテロ2:24

79節は、この僕が受けた苦しみの描写です。この世の犯罪人と同じような惨めな最期を遂げるというのです。四福音書にある十字架や、葬りの場面を見れば、この箇所の通りであるということに気づかれることでしょう。

1012節は、このような苦難の僕の姿は、神様のみこころであると言うことです。何という驚くべきことでしょうか!このような苦難の僕がおられなければ、人は救われることはありません。イエスを信じるものは罪が赦され神の子とされ、永遠の命をもつことが預言されているのです。

使徒8:3235は、エチオピア人がこの箇所をとおして救いに導かれ、バプテスマを受けたと記されています。彼を導いたのはピリポであり「この聖句から初めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた」結果だったのです。

ここに福音の中心、聖書の最も大切な教えがあります。しかしこれをだれが信じたのでしょうか?()また、だれがイエスキリストのことを思ったのでしょうか?(8)

イザヤが生きていた時代も、今も、主のみ言葉に人々は耳を傾けない時代です。そのような中にあって、まず私たちが神の言葉聞きたいものです。そしてみ言葉が示す苦難の僕、イエスキリストこそが救い主であることを、み言葉に基づいて証しすることが、主に喜ばれる僕の姿なのです。

では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

ローマ10:810

2011年2月 3日 (木)

大雪!

2月の1日、髙橋先生と小野牧師とともに、上越の実家に参りました。先月具合の悪くなった、父の見舞いに、わざわざ来てくださったわけです。お二人の先生方の心遣いに、感謝です。

幸い父は元気になり、昨年誕生した陽奈ちゃんと共に、歓談を楽しむことができました。父のお祈りに「日本一の美人に・・・ならなくてもいいけれども…元気にそだつように」との祈りには、思わず笑いがこみ上げそうになってしまいました。けれども、そんな素直な祈りをすることのできることを、ありがたいことだとも感じました。

1月に入ってからの大雪で、実家もご覧の通りです。道路は除雪されていますが、そのあとの雪がまだうずたかく残っており、雪道を通る人は、階段を下りて広い道に出る始末です。

春の到来を待ちわびる雪国の人たちの気持ちが、伝わってきますね。

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