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2011年2月 6日 (日)

イエス傷が人を癒すとは

2011.2.6(如月) NO.314 

だれが信じたか イザヤ53:112

本日の箇所は、イザヤ書にある「僕(しもべ)の歌」の第4番目のものであり、苦しみを受ける僕の姿が描かれています。この僕とは救い主メシヤのことであり、新約聖書の引用によって、それはイエスキリストであると理解することができます。あえて言えば、本箇所における「彼」をイエスキリストにおき替えて読んで良い、それがイザヤの語るメッセージをきちんと受け止めることになると言えます。

52:1315は、本箇所の序論となっています。これから語られる僕は、人々が思うような立派なものではなく、むしろさげすまされるような存在であり、それでもなおその方を信じることができるのか、という挑戦的な訴えを感じるほどです。

23節は、苦難の僕の姿が描かれています。見るからに小さくひ弱で、人々は顔を背けるほど惨めなものです。映画「パッション」では観客が目を背けるほどの残酷な仕打ちで描かれていましたが、まさにそのような苦しみをキリストは受けられたのです。ヨハネも世はイエスキリストを受け入れ無かったことをはっきりと著しました。

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

ヨハネ1:11

46節は、その僕をどのように人々が理解したか、を語っています。そのような苦しみを受けるのは、因果応報によって僕自身によると思ったのですが、じつは人々の神に背いたその罪を代わりに負ったためでした。罪あるものは、神に裁かれなくてはなりません。本来ならば、人々、すなわち私たちがその罰を受けるのですが、この僕が代わりに神の罰を受け、そのために私たちに平安と癒しが与えられたのです。この平安とは、神様との正しい交わりが回復し、神に造られた人としての尊厳が回復したことを示します。迷っていたものでしたが、自分らしく生きる道へと、連れ戻されたのです。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。      1ペテロ2:24

79節は、この僕が受けた苦しみの描写です。この世の犯罪人と同じような惨めな最期を遂げるというのです。四福音書にある十字架や、葬りの場面を見れば、この箇所の通りであるということに気づかれることでしょう。

1012節は、このような苦難の僕の姿は、神様のみこころであると言うことです。何という驚くべきことでしょうか!このような苦難の僕がおられなければ、人は救われることはありません。イエスを信じるものは罪が赦され神の子とされ、永遠の命をもつことが預言されているのです。

使徒8:3235は、エチオピア人がこの箇所をとおして救いに導かれ、バプテスマを受けたと記されています。彼を導いたのはピリポであり「この聖句から初めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた」結果だったのです。

ここに福音の中心、聖書の最も大切な教えがあります。しかしこれをだれが信じたのでしょうか?()また、だれがイエスキリストのことを思ったのでしょうか?(8)

イザヤが生きていた時代も、今も、主のみ言葉に人々は耳を傾けない時代です。そのような中にあって、まず私たちが神の言葉聞きたいものです。そしてみ言葉が示す苦難の僕、イエスキリストこそが救い主であることを、み言葉に基づいて証しすることが、主に喜ばれる僕の姿なのです。

では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

ローマ10:810

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