フォト
無料ブログはココログ

« サブスリー、表彰さる! | トップページ | かんばいとアンコウ »

2011年2月20日 (日)

庭上一寒梅

2011.2.20(如月) NO.315 

主のことばが成る エレミヤ1:112

エレミヤが神の召しを受けて活動した時代は、ヨシヤ王の治世の第13年、紀元前627年から、バビロン捕囚後の583年頃であったといわれています。(13)

彼がいた時代は、アッシリア帝国によって北イスラエルが滅ぼされ、そのアッシリアも新バビロニア帝国に滅ぼされた、イザヤがいたときに勝る激動の時代でした。そのような中で、神の言葉を語り、神に立ち返ることを訴え、ユダの国が生き延びるにはバビロニア帝国に服従する他はないと告げました。しかし彼の言葉は受け入れられず捕らえられ、そのバビロニアによって国は滅ぼされ、同胞が異国へ引かれいていくのを、痛恨の極みをもって見なければなりませんでした。

彼は、「涙の預言者」と言われています。民の頑なな心に涙し、国の滅亡を語らなければならなかったからです。しかし之は、同胞を思うあわれみの心からでたことでした。私たちの主がもっておられたと、同じ心だったのです。

 群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。マタイ9:36

エレミヤは、神様から直接預言者として声を掛けられ、任命されました(45)。「召命」といいます。預言者にかぎらず、神様から特別な働きのために選び出されること、人の側から見れば「天職」を授かったと言ってもいいかもしれません。

ところがエレミヤは、自分は若く経験が無く、何を語って良いかわからないと言って、その召命を拒否します。かつて、モーセもイザヤも神の召しを素直に受け入れられませんでした。新約聖書には、イエスの母となったマリアも、主の弟子となったペテロも同じであったと記されています。しかしこれらの人々はみな、神様の召命を受け入れ、語るべき言葉を授かるのです(69)

ここで大切なことは、神がエレミヤを実によく知っている、ということです。神様は、私たち一人一人を、私たちが生まれる前から知っているのです。そして私たちを罪の中から救い出し、神の子としてくださるというもう一つの召命を与えてくださったのです。ここに、人の理解を超えた深い神様の愛があります

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。エペソ1:4

人は苦難の中で立たなければならない時、 難しいと思われることを引き受けなればならないという場面に直面します。そのようなときに大切なことは、神様の言葉がなる、すなわち、神の御心がなるという信仰、神様への信頼をもつことです。それが1112にある象徴的な出来事です。

アーモンドの花は、イスラエルにおいて12月ごろ、他に先だって咲く植物です。日本で言えば、寒梅です。丘の上の梅も、実際に一番早くこの冬に花を咲かせました。同志社大学の創立者と後に言われた新島襄は、終焉の地大磯で、一つの漢詩を読みました。自分を冬の寒さの中で凛として咲く梅ににたとえた「寒梅」です。その最後の言葉は、「自ずから百花の魁を占む」とあります。一本の梅は、力むことなく自然にあらゆる花のさきがけとなったという意味です。

神のことばは、神様のみこころの内になることをどこまで信じていけるか、その忍耐が私たちに求められているのです。

 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。  1ペテロ1:2425

« サブスリー、表彰さる! | トップページ | かんばいとアンコウ »

礼拝メッセージ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 庭上一寒梅:

« サブスリー、表彰さる! | トップページ | かんばいとアンコウ »