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2011年3月20日 (日)

悲惨な町の姿を見て涙が出るのは

2011.3.20(弥生) NO.318 

献身への道 ルカ19:4148

今年は、西方教会の教会歴によれば、39日を灰の水曜日とよび、424日の復活祭までは、イエスキリストの苦難と復活を覚える受難節、レントの期間になっています。新年度は、使徒の働きから教会の営みを神様から教えられたいと願っていますが、そこに至る間、あらためて主イエスキリストの歩まれた道を心の巡礼としてたどって参ります。

これまで、イスラエルの歴史をとおして働かれる、主の救いのみ業を見て参りました。イザヤ書、エレミヤ書では、分裂した二つの国が苦しみを受け、ついにアッシリヤや新バビロニアといった国に滅ぼされていく歴史をたどりました。そこには、哀歌で歌われているように、滅ぼされていく民への悲しみ、哀悼、不信仰を嘆き悲しむ預言者がいたのです。

都エルサレムを目指すイエスさまは、このような歴史の背景をご存じであったに違いありません。そして弟子たちが神殿の美しさに感嘆するのを尻目に、やがて苦難の日がこの都を襲い、神殿も城壁も崩壊し、民が大いなる災難を受けることを預言しました。それは紀元70年のローマによるエルサレムが破壊され、ユダヤ人が国外に散らされるという出来事となって、成就していきます(マタイ24、ルカ21)。そのような中で、イエスは、都を見て泣かれたのでした。今回の大地震と、それに伴う津波の襲来や原発の事故によって、町や村が崩壊しました。遠く離れた私たちも、涙無くして見られないニュースとして配信されました。人の命が失われた!という衝撃と悲しさがあったからです。

私たちの主は、なぜ涙を流されたのでしょうか?それは、エルサレムの民が、神の訪れの時を知らず、自分勝手な生活をしていたからです(44)。まさに、我欲の奴隷となり神様を無視した人の姿があったからです。

人は時に、悲惨なことが起きると、罰があったととか、その人が何か悪いことをした報いを受けていると考えます。イエスさまはかつて、すばらしい奇跡が行われた町の民が悔い改めなかったことを責め(ルカ10:1316)、突然の事件や事故によって死んだ人たちが悪いのではないことを明らかにされました(13:15)。誰かが悪いのではない、このようなことを聞いた人自身が、神様の前に砕かれ、謙虚にされ、信仰を持つことが大切なことなのです。

「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」ルカ13:35

これは、現代の私たちこそが聞かなくてはならないイエスさまの言葉なのです。

エルサレムにある神殿は、祈りの家であるべきでした(イザヤ56:7)。神様を忘れた、形だけの礼拝が行われ、神殿は売り買いの場所となっていたのです。教会は今も祈りの家であり、地域社会にあってそこからでる様々な営みをもって人々に仕えているはずです。今回の大震災の中にあって、キリスト者も多くの援助者と共に、この視点で援助活動を展開しようとしています。

イエス様は、日々み言葉を語りました。それに対して、イエスを殺そうとする者があれば、熱心に耳を傾ける人もいたのです。

あなたはどちらでしょうか?イエスさまは、神様の言葉に従ってご自身を父なる神に委ねる、真の献身の道を歩まれたのです。その道は、私たちがたどる道でもあるのです。

「キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」ピリピ2:6

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