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2011年4月

2011年4月29日 (金)

主の十字架は輝やけり!

  4月26,27日の短いときでしたが、二人の兄弟たちと宮城県の気仙沼市に行ってきました。かつて春日部にいて信仰に導かれた、Sさん家族の慰問をかねたもので、彼に被災地を案内してもらいました。

まずはじめに案内されたのが、津波によって会堂が全て流されてしまった気仙沼第一バプテスト教会でした。嶺岸先生ご夫妻が待っていてくださいました。何もない、しかしそこに、十字架が立てられていたのです!復旧に入った人が、流されていた木を使って十字架を立てたところ、誰かが教会の塔につけられていた十字架を見つけ、その側にそっと置いてくれたというのです。

皆で輪になって、聖歌397を歌い、祈りました。涙が止まりません。関東大震災の時に作られたこの賛美は、宮城の地でも主の十字架を証ししています。改めて2節は、押し寄せる津波を思わされ、胸が痛みました。

水はあふれ火は燃えて 死は手ひろげまつまにも

なぐさめもてかわらざる 主の十字架は輝けり

なぐさめもてながために なぐさめもてわがために

揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり

その後、キングスガーデンと気仙沼聖書バプテスト教会に支援物資を差し上げ、千葉先生からは現地の様子をうかがい、お孫さんのいる小学校で綿飴の機械を回し、抹茶を差し上げました。障害者施設でも綿飴を作ったのですが、入所されている方や子ども達の笑顔に、こちらもホットさせられた一時でした。

宮城の地から、十字架を見上げ、復活の主に望みを置く新しい賛美歌がきっと生まれることでしょう。

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<嶺岸先生と共に>Mine17

2011年4月24日 (日)

復活祭の祈り

私たちの天の父なる神様

あなたはこの世界の全てをお造りになり、みこころの中に留め、宇宙の全ての営みを導いておられるお方です。

父なる神様は、その一人子である主イエスキリストをこの世に遣わし、神様の大きな愛を表してくださいました。御子は十字架で命を落とされ、墓に葬られましたが、3日目によみがえり、今も私たちと共にいてくださいます。

本日は主にある全ての教会が、イエスキリストの復活を覚えて、礼拝を捧げております。先の大きな震災被害を受けられた兄弟姉妹も、困難の中で、復活の主を見上げていることと思います。

私たちは、揺れ動く地にあって、恐れや不安にさいなまれ、神様を信じる信仰までも、揺らいでしまう弱い者です。けれどもこの復活祭礼拝と午後の営みをとおして、もう一度復活の信仰を新たにすることができますように。

今日は、春日部市の行事である藤祭りが行われています。どうかこの街を祝福してくださると共に、私たちがイエスキリストの命を証しし、よき隣人となれるよう力づけてください。

あなた様に礼拝を捧げることのできる恵みを感謝し、主イエスキリストの御名によってお祈りを致します。

復活祭合同礼拝説教テキスト 髙橋敏夫名誉牧師

「生命と死」

ヨハネ20:24-29

24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。

 25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

 26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。

 27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

 28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

 29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

2011年4月23日 (土)

新緑のケヤッキー

明日は、復活祭。春日部では、藤祭り。天候に恵まれることでしょう。

主イエスキリストの復活が、私たちにとって、春日部の町にとって、そして震災後大きな困難の中にある方々に、明日を見る力となるように。

丘の上のケヤッキーも、新しい葉をつけ始めました。冬に葉を落としたケヤッキーも、生きていますよ。私たちも、キリストの命に預かりたいと心から思います。

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2011年4月17日 (日)

受難週の祈り

本日はシュロの聖日、中央会堂での説教です。

祈りをアップします。

あわれみ深い、私たちの天の父なる神様

主イエスキリストの受けられた苦しみを覚え、復活へと続く道をたどる受難週となりました。教会の暦では、この日曜日は私たちの主がエルサレムに入られた日です。ご自分の死に場所、最期の時を知ってなお、進んで行かれた主の姿は、どのようなものであったのでしょうか?

み言葉によれば、そのみ顔はしっかりとエルサレムにけられていたとあります。揺るぎはありませんでした。

それに比べて、揺れ動く地にあって、恐れや不安にさいなまれ、信仰までも萎縮してしまう弱さを感じております。小さな情報に、大騒ぎをしてしまう愚かな者でもあります。復活の主を信じていながら、あなたにより頼むことができないのです。

そのような私どもをあわれみ、この受難週をとおして、あなたを見上げる者としてください。心の巡礼として、主の歩まれた道をたどり、父なる神様のみこころに従う者としてくださいますように。

彼の地にある主の教会が、あなたのあわれみの中でこの1週間が守られ、復活の日を迎えることができますよう、心からお祈りを致します。

主イエスキリストの御名によってお祈りを致します。

2011年4月16日 (土)

葉桜

新緑の季節となりました。

明日からは受難週。主の最後の一週間をたどります。110416

2011年4月15日 (金)

花筏

水面に散った花を、いかだとよぶ。すてきなことです。弘前公園で見た花筏は、見事でした。

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2011年4月14日 (木)

お花見

暖かくなりそうです。今日は絶好のお花見日和。

どうぞお出かけください。夜桜もいいですね。

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2011年4月13日 (水)

散り始めました

花びらが落ちていきます・・・・

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2011年4月12日 (火)

丘の上と上野公園

昨晩の雨で、散り始めました。

丘の上と上野公園の景色です。

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2011年4月11日 (月)

ムスカリも満開です

この季節、いろいろな花が丘の上に咲いています。

桜の花の下で、ベルをたくさんつけたような花が咲いています。ユリ科のハナ、ムスカリです。花言葉は寛大なる愛、明るい未来、通じ合う心、というそうです。受難節のなかで、復活を待ちわびる今の季節にふさわしい花のように感じました。そして、一ヶ月前の地震や津波で今もなお苦しみの中にある方々のためにも。

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2011年4月10日 (日)

ツリーハウスから

4月10日

昨日とは違い、朝の日差しに照らされています。ツリーハウスから撮りました。

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運命論ではない

2011.4.10(卯月) NO.321 

みこころの成るとき ルカ22:39-46

東日本大震災の被災地では、そこに立って祈る人の姿が、ネットや新聞などで見られるようになりました。このような悲惨な状況の中で、人は祈ることしかできないのでしょうか?あっという間に消え去ってしまうような私たちは、何のために生きているのでしょうか?

弟子たちと過ぎ越しの食事をされたイエスは、「いつものように」祈るために出て行かれました。祈りは、特別なことではなく、絶えずなされる神様との交わりです。

 絶えず祈りなさい。1テサロニケ5:17

このときイエスの行かれた場所は、オリーブの木が茂っているゲッセマネという園でした。それはエルサレムの東側、オリーブ山の麓にあり、現在では万国民の教会(苦悶の教会)が建てられている所です。

イエスは3人の弟子たちを連れて行かれ、祈っているようにと言われました。キリスト者の交わりは、共に祈り合えるという交わりです。一人では負いきれない苦しみや重い課題があるとき、あなたのために祈ってくれる仲間がいることは、大きな支えとなります。そのような、祈りの友を持ちたいものです。

このときのイエスの祈りは、苦しみの祈りでした。祈りは神様との交わりですから、楽しく甘美なこともあるでしょう。しかし時には、涙を流し、体全体で痛みを覚える祈りもあるのです。私たちの主は、汗が血のように流れるほどの苦しみがありました。それは父なる神様のみこころに従うか否かという、内面の葛藤があったからです。

神のみこころに従うとは、運命や宿命に翻弄されて、あきらめの人生を送ることではありません。神様への献身であり、神に完全に信頼することです。また、神のみこころは、イエスが殺されることを良しとするものでもありません。

 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 ヨハネ6:40

神のみこころは、人の救いです。イエスは自分が人々に引き渡され、十字架で死ぬことをとおしてこの神様のみこころが成就することをついに受け入れ、祈りの場から立ち上がって行かれたのです。もはや、これから受ける苦難の恐怖から解放されたのでした。

このとき、3人の弟子たちは肉体の弱さ、精神の弱さ故に眠ってしまいました。これは私たちの姿でもあるのです。しかし神はそのような弱さのある者を顧み、神のみこころを行うことを霊の糧として、私たちを養ってくださるのです。私たちの生涯とは、この神様のために献げる生涯ではないでしょうか。

 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。 1ペテロ4:2

2011年4月 9日 (土)

満開の桜の元で

ついに丘の上の桜は満開となり、恒例の園遊会を行いました。

小学校新1年生から、80歳を超える高齢の方まで、およそ30名の方々と桜と一緒に過ごす一日を楽しみました。今にも降り出しそうな空模様でしたが、何とか守られ、庭でバーベキューをし、皆さんに召し上がっていただきました。

食後の俳句大会では、左記の地震で被災された方に届く作品も生まれました。ヤマリンの一句です。

突風に 吹き飛ばされても 咲く桜

桜の花は、散るときが来なければ、どんなに雨風に打たれても散りません。しかし時が来れば、一斉にその花は花吹雪となって散っていきます。そして新しい年の春になれば、つぼみをつけ花を咲かせて私たちを楽しませてくれます。地震や津波、そして原発事故の中にある方々は、厳しい風に吹きさらされている桜の木のようであるかもしれません。そのような中で必死に耐えしのび、復興を目指してがんばっている方々へのエールとして詠んでみました。

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2011年4月 8日 (金)

満開です

4月8日、丘の上記念会堂の桜は満開です。

明日9日は、お年寄りの方と子ども達をお招きしての、園遊会です。天気がちょっと心配ですが、和やかな春の一日となるように。

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2011年4月 7日 (木)

春の日差しをいっぱいに浴びて

4月7日の桜です。

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2011年4月 6日 (水)

咲き始めました

丘の上の桜も、咲き始めました。

4月2日と、6日の画像です。

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2011年4月 3日 (日)

どん底から希望を見る

2011.4.3(卯月) NO.320 

主を覚えて ルカ22:14-23

イエスが弟子たちとした過越の食事は、「最後の晩餐」といわれるようになり、聖画としても描かれる場面となっています。この過ぎ越しの食事の時に、主はパンと杯を取って、今日までキリスト教会で行われるようになる聖餐式(ミサ、聖体拝領)の定めをされました。実に重大なことが、最後の一週間の中で起きたのです。

過ぎ越しの祭りの時の夕食、過ぎ越しの食事は、ユダヤ人にとっては今日まで守られている大切な食事です。かつてエジプトで苦しみを受けていた民がモーセに率いられて紅海を渡り、エジプトを脱出したときのことを思い起こす食事です。10の災いがエジプトを襲いましたが、羊の血を入り口の柱とかもいに塗った家は主の使いが通り過ぎ、災いに遭うことはありませんでした。

あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。 出エジプト12:1314

過ぎ越しの食事では、まず家長によって杯が取り上げられ、神様の祝福を願います。そしてパンが裂かれて渡され、さらに杯がまわります。祈りや賛美、そして聖書の朗読があって、食事が進んでいきます。その中で、イエスは新しい意味づけをされたのです。パンは、十字架に掛けられ傷つけられる主の体であり、杯の中の葡萄酒は主のからだから流される血潮です。これは、イエスキリストの十字架の死こそが、私たちの罪を赦し新しい人へと造り変えてくださる、神様のあがないのみわざの象徴です。それゆえ、聖餐式に預かるたびに主の十字架を覚え、自らを献げ、心を新しくして主に仕える信仰を表すときとなるのです。それは、パウロが受け取った言葉として1コリント11:23-29に記されており、聖餐式の式文となっています。

このような麗しい食事の席ではありましたが、主は弟子たちの中でご自分を裏切る者のあることを告げます。ユダのことでしたが、後にペテロも主を否みます。他の弟子たちも、イエスを見捨てて逃げてしまいました。裏切りの予告は、私たちの弱さを知っておられる、主のことばでした。しかしペテロをはじめ弟子たちは、その弱さの中でも、立ち直ることができました(32)。復活の主と出会ったからです。絶望の中で希望をもたらすのは、イエスキリストの復活という事実に他ならないのです。

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 1コリント15:1920

311日の大震災は、まさに絶望的な状況をもたらしました。そのようなことでなくても、自分はドン族に落とされていると感じている方もあるでしょう。しかしこの世の地獄と思えることの中で、復活の主を覚える者は、その「底」から立ち上がる希望を見ることができるのです。

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