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2011年4月10日 (日)

運命論ではない

2011.4.10(卯月) NO.321 

みこころの成るとき ルカ22:39-46

東日本大震災の被災地では、そこに立って祈る人の姿が、ネットや新聞などで見られるようになりました。このような悲惨な状況の中で、人は祈ることしかできないのでしょうか?あっという間に消え去ってしまうような私たちは、何のために生きているのでしょうか?

弟子たちと過ぎ越しの食事をされたイエスは、「いつものように」祈るために出て行かれました。祈りは、特別なことではなく、絶えずなされる神様との交わりです。

 絶えず祈りなさい。1テサロニケ5:17

このときイエスの行かれた場所は、オリーブの木が茂っているゲッセマネという園でした。それはエルサレムの東側、オリーブ山の麓にあり、現在では万国民の教会(苦悶の教会)が建てられている所です。

イエスは3人の弟子たちを連れて行かれ、祈っているようにと言われました。キリスト者の交わりは、共に祈り合えるという交わりです。一人では負いきれない苦しみや重い課題があるとき、あなたのために祈ってくれる仲間がいることは、大きな支えとなります。そのような、祈りの友を持ちたいものです。

このときのイエスの祈りは、苦しみの祈りでした。祈りは神様との交わりですから、楽しく甘美なこともあるでしょう。しかし時には、涙を流し、体全体で痛みを覚える祈りもあるのです。私たちの主は、汗が血のように流れるほどの苦しみがありました。それは父なる神様のみこころに従うか否かという、内面の葛藤があったからです。

神のみこころに従うとは、運命や宿命に翻弄されて、あきらめの人生を送ることではありません。神様への献身であり、神に完全に信頼することです。また、神のみこころは、イエスが殺されることを良しとするものでもありません。

 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 ヨハネ6:40

神のみこころは、人の救いです。イエスは自分が人々に引き渡され、十字架で死ぬことをとおしてこの神様のみこころが成就することをついに受け入れ、祈りの場から立ち上がって行かれたのです。もはや、これから受ける苦難の恐怖から解放されたのでした。

このとき、3人の弟子たちは肉体の弱さ、精神の弱さ故に眠ってしまいました。これは私たちの姿でもあるのです。しかし神はそのような弱さのある者を顧み、神のみこころを行うことを霊の糧として、私たちを養ってくださるのです。私たちの生涯とは、この神様のために献げる生涯ではないでしょうか。

 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。 1ペテロ4:2

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