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2011年4月 3日 (日)

どん底から希望を見る

2011.4.3(卯月) NO.320 

主を覚えて ルカ22:14-23

イエスが弟子たちとした過越の食事は、「最後の晩餐」といわれるようになり、聖画としても描かれる場面となっています。この過ぎ越しの食事の時に、主はパンと杯を取って、今日までキリスト教会で行われるようになる聖餐式(ミサ、聖体拝領)の定めをされました。実に重大なことが、最後の一週間の中で起きたのです。

過ぎ越しの祭りの時の夕食、過ぎ越しの食事は、ユダヤ人にとっては今日まで守られている大切な食事です。かつてエジプトで苦しみを受けていた民がモーセに率いられて紅海を渡り、エジプトを脱出したときのことを思い起こす食事です。10の災いがエジプトを襲いましたが、羊の血を入り口の柱とかもいに塗った家は主の使いが通り過ぎ、災いに遭うことはありませんでした。

あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。 出エジプト12:1314

過ぎ越しの食事では、まず家長によって杯が取り上げられ、神様の祝福を願います。そしてパンが裂かれて渡され、さらに杯がまわります。祈りや賛美、そして聖書の朗読があって、食事が進んでいきます。その中で、イエスは新しい意味づけをされたのです。パンは、十字架に掛けられ傷つけられる主の体であり、杯の中の葡萄酒は主のからだから流される血潮です。これは、イエスキリストの十字架の死こそが、私たちの罪を赦し新しい人へと造り変えてくださる、神様のあがないのみわざの象徴です。それゆえ、聖餐式に預かるたびに主の十字架を覚え、自らを献げ、心を新しくして主に仕える信仰を表すときとなるのです。それは、パウロが受け取った言葉として1コリント11:23-29に記されており、聖餐式の式文となっています。

このような麗しい食事の席ではありましたが、主は弟子たちの中でご自分を裏切る者のあることを告げます。ユダのことでしたが、後にペテロも主を否みます。他の弟子たちも、イエスを見捨てて逃げてしまいました。裏切りの予告は、私たちの弱さを知っておられる、主のことばでした。しかしペテロをはじめ弟子たちは、その弱さの中でも、立ち直ることができました(32)。復活の主と出会ったからです。絶望の中で希望をもたらすのは、イエスキリストの復活という事実に他ならないのです。

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 1コリント15:1920

311日の大震災は、まさに絶望的な状況をもたらしました。そのようなことでなくても、自分はドン族に落とされていると感じている方もあるでしょう。しかしこの世の地獄と思えることの中で、復活の主を覚える者は、その「底」から立ち上がる希望を見ることができるのです。

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