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2011年5月

2011年5月29日 (日)

聖霊に満たされた人たち

2011.5.29(皐月) NO.326 

神のみわざを語る 使徒2:113

かつてイエスさまが約束されていた聖霊が、五旬節の日に集まっていた弟子たちにくだり、彼らは聖霊に満たされ、神のみわざを語りました。今日ではこの日を聖霊降臨日といい、教会の誕生した記念すべき日となっています。

五旬節とはユダヤの祭りの一つで、七週の祭りとも言われ、小麦の収穫を神に感謝し、罪の赦しを願う捧げものと共に神様に献げる祭りで、今日でも行われています。過ぎ越しの祭りから数えて50日目にあたるので、五旬節(ペンテコステ)とよんでいます。

小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の変わり目に収穫祭を、行なわなければならない。出エジプト34:22

このときには、特徴的な3つの出来事が起こりました。「激しい風が吹いてくるような響き」がおきました()。人々の関心を否応なしに集める出来事です。そして「炎のような分かれた舌が現れて、一人一人の上にとどまった」のです()。この場面は多くの聖画やイコンに描かれています。実際には、どのような光景だったのでしょうか。そして「皆が聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国の言葉で話し出した」というのです()。聖霊に満たされるとは、内的な経験であり、他の人にはわからないことです。しかしこのときは、ユダヤ人でありながら、いろいろな国の言葉で神のみわざを語ったというのです(11)。五旬節にあわせてこの当時知られていた地中海世界の国々、地域の人たちが来ていました(911)。その人たちが、弟子たちの語っている言葉をそれぞれに理解したのです。この出来事を「異言」と言って、通常の言語では無い言葉で語ったり祈ったりすることと区別される必要があります(1コリント1214)

聖霊に満たされた人たちが、いろいろな国言葉で神のみわざを語り、それを聞いた人たちがそれを理解したということが大切です。福音は、全地球的なものであり、ユダヤ人だけの良い知らせでは無く、人種や国境を越えて、イエスキリストを信じるものはだれでも救われるという人種や国境を越えた全人類のための良い知らせであることを示しているのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。エペソ2:19

エルサレムにいた人たちは、残念ながら彼らを「甘い葡萄酒に酔っている」と言ってあざけりました。ペテロはそれを聞いて立ち上がり、説教をもってこれを正すことになります。私たちも、この国にあって、日本人に通じる言葉と生活をもって福音を語る努力が必要です。教会を生み出してくださったのが聖霊であるように、あなたを新しく生まれさせてくださった聖霊は、あなたにも神のみわざを表してくださっているのです。そこに救いのストーリーがあるのです。

「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」ローマ10:15

2011年5月22日 (日)

お茶会も恵まれて

第14回丘の上チャリティー茶会
前日の激しい雨が上がり、すがすがしい皐月の14日、第14回となる丘の上チャリティー茶会が行われました。
教会の茶道友の会は友愛ホールでおもてなしをし、203名のお客様をお迎えできました。キリスト者である平野さん(大日本茶道学会)は小間での濃茶、この街の先生である藤井さん(裏千家)は広間での濃茶、最初からの仲間である香田さん(江戸千家胃泊流)は新緑の復活の庭で野点と、それぞれに趣向を凝らした席があり、皆様に楽しんでいただけたと思います。合計では、260名ほどの来会者となりました。
礼拝堂の講演では、髙橋先生が新しい資料に基づいて大友宗麟の信仰と茶の湯を伝道者のスピリットで語り、その合間にはミニコンサートがもたれました。コンサートでは、出演者の方が宮城県竜ヶ崎の方であり、被災地を思いつつ「故郷」を4番まで含めて参加者で歌うリードをしてくださいました。
今回の寄付金は、社会福祉協議会をとおして東日本大震災の被災地に届ける予定です。悲しみの中にも、慰めと希望が与えられるときとなったと思います。

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                    (十字滝下の聖家族)

失ってこそ、得るものがある

2011.5.22(皐月) NO.325 

教会誕生の備え 使徒1:111

動物や植物など、あらゆる生き物は新しい命の誕生のために、それぞれの備えをいたします。教会の誕生は、イエス昇天後の最初の五旬節(ペンテコステ)の時でした(使徒2)。今日では、聖霊降臨日として教会歴に入れられています。

教会は、イエスキリストを信じる者の集まりであり、聖霊によって生み出され、今や全世界に広がるものです。あえて英語を使えば、グローバル、インターナショナルなものと言えるでしょう。教会がそれぞれの国や地域に建てられており、各々の歴史や文化の中で異なる教会の姿があります。普遍的でありつつ、独自な教会があると言えるのです。

その教会が誕生する備えは、どのようなことだったのでしょうか。

イエスは、エルサレムにとどまるよう命じられました(4)。それはかつて語られた約束の聖霊を受けるのを待つためでした。

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。 ヨハネ14:16

エルサレムは、弟子たちにとってイエスが処刑された場所であり、彼らもまたユダヤ人にその命を狙われていると思われる場所でした。できればここから逃げ出し、郷里に帰って普通の生活を取り戻したかったかもしれません。しかしイエスはその困難なところにとどまり、主の約束を待つように命じられたのです。待つことが備えになるのです。

待っていた弟子たちは、共に祈り合っていました(14)。この祈りの姿は、五旬節の日にも見られたことでした(2:1)。旧約聖書の時代から、祈りは待つことの力になります。一人であれ、他の兄弟姉妹と一緒でもあれ、神様の前に出て祈ることが、教会誕生の備えに欠かせないのです。

私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。 詩篇130:6

イエスの昇天後、12人の弟子たちには一人欠けがありました。彼らは神様のみこころを求めるためにくじを引き、マッテヤがその仲間に加えられました(26)。欠けているところ、必要な人材が補われたのです。教会の誕生のために、目に見えるところが整えられたと言える、できごとです。また、弟子という言葉から、使徒(遣わされた者)に変わっていることに、注目してください。

このようなことの他に、全てを失うということが、新たに教会が生まれるために必要なことであるように思います。4月末に訪問した嶺岸先生ご夫妻は、地震、津波によって会堂も牧師館も失いました。しかしご夫妻からは、全てを失ったからこそ神様だけに信頼するすがすがしさを、感じたのです。神への信頼こそが、教会誕生にあたって最も必要な備えなのだと思わされました。

悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。2コリント6:10

2011年5月15日 (日)

死んでもなお生きる

2011.5.15(皐月) NO.324 

キリストに生かされて 使徒1:15

本日から「使徒の働き」を開いて参ります。著者は、ルカの福音書を書いたルカであり、その献呈先はテオピロという人であり、キリスト者であったローマの高官と思われます。使徒の働きは教会が生まれて、地中海社会に福音が伝えられていった様子が描かれています。歴史の書と言えるでしょう。

聖書全体は歴史の書であり、預言、詩の書物です。それと共に、私たちの日々の生活や死んでからもなお続く永遠の命について記した書です。これを自分のものとするとき、私たちは生きる者とされるのです。

私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。1ヨハネ5:13

イエスは十字に掛けられ、死なれ、そして墓に葬られました。しかしそれで終わりではなく、よみがえられました。復活されたのです!その後イエスは40日間弟子たちにご自分が生きていることを数々証しされ、イエスを信じる者は救われるという神の国の福音を宣べ伝えられました。復活は、私たちには信じがたいことですが、この当時はよみがえられたイエスを見た人たちが大勢おり、そのときに聖書は書かれたのですから、イエスの復活が歴史の事実であったことを認めざるを得ないでしょう。

その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

1コリント15:6

イエスキリストは生きておられるのです(3)。使徒の働きは、イエスがよみがえられことの証言集であり、命を賭けてイエスの復活を宣べ伝えた人たちの物語です。それ故に、ペテロやパウロなど弟子たちは、地上だけのことではなく天国を望む生き方であったことがわかります。

元キャンディーズの田中好子さんは、「私も一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると、負けてしまうかもしれません。でも、そのときは、必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。」とメッセージを残しました。その実現は、イエスキリストの十字架と復活にかかっているのです。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。1コリント15:20

キリストが生きていることを信じている者は、どのような困難の中でもその方によって生かされ、死ぬことがあってもなお益であると知っている者なのです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2:20

2011年5月 9日 (月)

チャリ茶会に向けて

いよいよ今週土曜日、14日は、丘の上チャリティー茶会の開催です。明日は庭師が入り、社中の人たちと一緒に、会場の準備となります。

復活の庭は野点の会場となりますが、ツリーハウス欅庵はしばしお別れ。この庭がハレの舞台に変わっていきます。お楽しみに。

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2011年5月 8日 (日)

母の日に

2011.5.8(皐月) NO.323 

みこころを行う者 マタイ12:46-50

本日5月の第2日曜日は、母の日です。アメリカの教会で始まったことが、日本の暦に取り入れられた記念日です。賛美歌や聖歌に母の日の賛美がありましたが、なぜか新聖歌には入っていません。しかしよく知られている「いつくしみ深き」(新聖歌209)は、婚約者を事故と病で2度も失ったジョセフ・スクライブンが、その知らせを聞いて悲しみにくれている母親を慰める為に作った詩が元になっている賛美歌で、これは母の日にふさわしい賛美であると思います。

イエスの母マリヤは、今日でこそ崇敬の対象ともなる人物ですが、聖書ではどのように描かれているのでしょうか。福音書では、母マリヤはイエスとは少し距離をいているように、描かれています(ヨハネ2:4)

すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

また、イエスの伝道生涯において、周りの人たちも、マリヤが特別な存在であるとは気づいていませんでした(ヨハネ6:42)

  彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」

あるとき、イエスさまが大勢の人に囲まれているとき、イエスの母と兄弟たちがやって来ました。親切な人が、家族の者を引き合わせようとしたときに言われた言葉が、本日のテキストです。これもまた親や兄弟たちを突き放したような言葉です。このような状況になれば、だれでも身内の人には気を遣い、当人たちもそっと家族と会話を交わすでしょう。ですから、人々はイエスの言われたことに当惑したことでしょう。しかしこのときのイエスの言葉は、普通の家族ではない、神様を中心とした新しい家族関係が生まれることを予見していった言葉なのです。それは、神のみこころを行うものはみな神の家族であり、人の生まれや出自に関わりなく、イエスキリストを中心とした祝福された者となることを告げているのです(ヨハネ1:12,13)

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

この新しい家族の営みは,イエスの十字架上の言葉にはっきりとあらわされました。自分の子を悲惨な仕方で失うという悲しみの中で、マリヤはこの言葉を希望を持って受け止めたと思います。かつて心に留めておいた言葉が、よみがえってきたことでしょう(ルカ2:3435)。苦しみを受けられたイエスこそ救い主であり、神は人々の救いを願っておられるとの御心が示され、この方を信じることにより新しい神の家族としての営みが始まるのです。

私たちの主は、父なる神のみこころをおこなうために、この世に来られました。それが、イエスの食べ物でさえあったのです。イエスの十字架にこそ、神のみこころが表され、そのみこころを行う者にこそ、神の家族としての祝福があるのです。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。マタイ7:21

2011年5月 1日 (日)

主イエスキリストはよみがえられた!

2011.5.1(皐月) NO.322 

復活の証人 ルカ24:44-49

今年の復活祭は、東日本大震災のことを覚え、被災された教会支援のために献金を捧げるということでその規模を縮小し、中央会堂と教会前通りでの開催となりました。受難週をとおしてなされた早朝の礼拝、そして24日の復活祭礼拝で、復活の証人として立つことを改めて主の前に祈らされ、私にとっては再献身の時となりました。皆様は、いかがでしたでしょうか?

イエスキリストの生涯は、まことにユニークな生涯でした。その誕生は聖霊によるものであり、処女マリアから罪のない人としてのものでした。公生涯の最後は、十字架につけられて殺されるという悲惨なものでした。それは単なる犠牲の死というのではなく、全人類の罪をその身に負い、神の赦しを得る購いの死だったのです。十字架から取り下ろされた後墓に葬られましたが、3日目によみがえって弟子たちに現れ、天に挙げられたのでした。キリスト者とは、このようなイエスさまの生涯(ストーリー)を語り伝えるものであり、特に、復活の証人として全世界に派遣されている者と言っていいでしょう。

イエスキリストの生涯は、救い主について書かれている聖書の成就です(44)。そのことがわかるのは、聖書を読む者が心を開かれているときです。私たちの心が開かれ、みことばを受け入れる備えができているでしょうか。このとき、弟子たちは人々を恐れ、復活が信じられず、不信仰と失意の中にありました。イエスはそんな弟子たちの心を開かせて、改めてご自分の生涯、特に復活を語られました(45-46)。十字架の死と復活は、人々を罪から救うすばらしいニュースです。これが福音(グッドニュース)です。この福音は、弟子たちが今いるところの、エルサレムから宣べ伝えれるビッグニュースでもあるのです(47)。またイエスは、彼らが復活の証人となり、そのための力が与えられるまでしばらく都エルサレムにとどまっているようにとも言われました(48-49)

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、1コリント15:1314

復活の証人とは、イエスキリストの復活の目撃者のことです。弟子たちは、よみがえられたイエスを見ることができました。また食事を共にしたり、会話をしたりと親しい交わりをもつことができました。まるでイエスさまにふれているような時をもったのです。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、1ヨハネ1:1

しかし私たちには、そのような経験がありません。当時の弟子たちより、復活の証人として立つことが難しいと思います。あの疑り深いトマスが信仰を回復したという物語は、現代に生きる私たちに、イエスを見ずに信じる者こそが復活の証人であることを証ししているのです。

ドナルドキーン氏は、大きな地震があったために米国籍を捨てて日本人になると言われました。それは、氏が日本を心から愛している証しです。神様は、ご自分の位を捨てて私たちと同じ人となってくださったのです。この真に仕える姿こそが、復活の証人としてこの地に生きることの模範に他なりません。

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。使徒2:32

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