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2011年6月26日 (日)

私にあるものとは?

2011.6.26(水無月) NO.327

イエスの物語 使徒3:110

先月、西荻窪の音楽ホールで、天田繋先生作品を中心とした曲を歌うコンサートがありました。演奏会の最後は、「キリストの愛我に迫れり」を会衆と出演者共々に歌い、感動をもってコンサートは閉じられました。

この賛美歌は、ちょうど40年前(1971)に歌詞が生まれ、翌年の共立学院卒業式で女声合唱として歌われて、多くの人が知ることとなりました。しばらく前に、この「キリストの愛我に迫れり」の誕生秘話が収録された雑誌を読む機会がありました。そこには、作詞の山口先生、作曲の天田先生の神様に導かれた物語が掲載されており、改めてこの賛美歌のもつ証しの力に胸が熱くなりました。

エルサレムに生まれた教会は、聖霊によって生み出された新しい交わりでしたが、当時のユダヤ人の習慣の中で礼拝を持っていました。ペテロとヨハネはユダヤ人として午後3時の祈りの時間に神殿に上りましたが、この時間こそ主イエスキリストが十字架で息を引き取られた時でした。十字架を思って、祈りを捧げたことでしょう。何かを記念して時間を定めて祈ることは、良い習慣であると思います。

「美しの門」と呼ばれたところに、生まれたときから足の不自由な人がおり、彼らに施しを求めました。彼は40才ほどで(4:22)、長い間辛い生活を強いられていました。ペテロとヨハネがしっかりと目を留めてくれたので、何か施しものをもらえるものと思ったことでしょう。しかしペテロは「金銀は私にはない。」と言いました。彼はがっかりしたかもしれません。しかし次に「私にあるものをあげよう。ナザレのイエスキリストの名によって歩きなさい!」と言ったのです。そして彼の手を取ると、本当にこの男は立ち上がり、歩き出し、飛び跳ね、神を賛美して二人についていったのです。原文では、分詞形が使われ、この男性がいかに喜んだかが活き活きと描かれています。

この出来事に続いて、ペテロは五旬節の日のように説教を致します。彼がこのようにいやされたのは、イエスを信じる信仰の故であることを人々に告げました(16)。イエスの御名こそ、ペテロが持っているものだったのです。

病や災害によって困っている人たちには、そこから回復されるために、医療や救援物資などが必要です。アフターケアも、当然必要です。しかし人が本当にいやされ生かされるのは、悔い改めてイエスを信じ、神を賛美する生活に入れられることです。そのために、私たちの持っているものをその人たちに分かち合うことです。私たちは、今何を持っているでしょうか?それは、イエスキリストがあなたにしてくれた救いの物語(ストーリー)、証しです。それは自分に起こった本当の出来事ですから、力があるのです。

ペテロが言うように、自分の力とか信仰深さによらないのです(12)。私たちの中にあるキリストの物語が、あなたの近くにいる人を立たせることができるのです。

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 2コリント4:7

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