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2011年7月

2011年7月31日 (日)

闇に輝く光のように

2011.7.31(文月) NO.332

初代教会の光と闇 使徒4:32-5:11

初代教会は、あらゆる教会のルーツ、あるいは模範となる教会だと思います。しかしそれは欠陥のない、完全な教会ではありませんでした。闇のように暗く、どこに光を見いだしたらいいのかと思われるようなことが起きたのです。

4章の後半は、まことに麗しい光景です。復活の主の証人としてみことばを宣べ伝えただけではなく、各自の持ち物を売り、必要時に応じてそれを分かち合っていたのです。「使徒たちの足元に置く」とは、このような捧げものを使徒たちが管理していたことを表す言葉でしょう。初代の教会には、このとき一定の秩序が存在し、助け合う交わりがあり、その結果貧しい人たちがなかったというのです。これはまさに、私たちが模範とすることが行われていたのです。

その中でバルナバと呼ばれる人物が出てきます。後に彼は、回心したパウロを助け、その伝道の補助者としても同行するようになります。

それとは反対に、アナニヤ、サッピラという夫婦が打たれて、突然死んでしまうという衝撃的なことが起こりました。5:111には、初代教会の闇の部分が隠されることなく記されているのです。

この二人は、邪悪な人ではなかったと思います。他の信者のように、教会の交わりに加わり、自分たちも地所を売って貧しい人たちを助けようと思った良い人であったと思います。しかし彼らは、使徒たちの足元に置いた代金が、あたかも地所を売った代金の全てのように報告したのです。これが問題でした。ここに、偽り、嘘が入ったのです。ペテロはこのことを「サタンに心を奪われ、聖霊を欺いた」と糾弾したのです。

サタン、すなわち悪魔は、神様に逆らい、人の心に小さな偽りを入れて、神様から遠く離れさせようとする存在です。その様子は、アダムとエバへの誘惑(創世記3)、イエスに対する誘惑(マタイ4:1-11)に描かれています。教会は、聖霊によって生まれた新しい交わりでした。良く見える行為でも、イエス様に対して心がまっすぐでなければ、教会の交わりにおいて聖霊を欺くことになってしまいます。自ら犯した罪を知りながらもそれを無視し、自分の欲望を満たそうとすることが、神を欺くことなのです(1ヨハネ1:810)

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

しかしこのような闇の中にこそ、イエスさまはいてくださいます。それは漆黒の宇宙に浮かぶ小さな灯火のようなものかもしれません。大きなクリスマスツリーのてっぺんに輝く、星のようなものでしょう。神と人を欺こうとする誘惑の中で、真の光であるイエスにいつも真実でありたいのです。

ヨハネ1:45

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

2011年7月26日 (火)

光る、輝く

牧師にとって、教会での様々な働きは、まさに自分のなすべき最大のミッションです。ところが、このミッションはそう簡単には進みません。

そんな中ですが、気心の知れた牧師さんたちとの交わりは、自分にとって大いに刺激となり、力となり、慰めとなります。25日の月曜日は、高橋先生の旧知の仲であり、同盟教団牧師として長年伝道牧会に励まれてきたY先生のお宅を訪ねて参りました。小野先生と、東地区の二人の先生方といっしょのミニツアーとなりました。

Y先生は、元大工であり、教会形成を家を建てることにたとえてお話しくださいました。また、石にはオモテがあり、そこに光を当てると輝くこと、切り株になった根を掘り起こして磨くと立派な置物になることなど、実にわかりやすくお話をしてくださいました。

先生のお宅は、千葉県館山市にあり、アクアラインを使っての旅となりました。そして海ほたるに立ち寄り、帰りはそこで夕飯をいただきながら、この日の出来事を五人で分かち合いました。で、小さな海ほたるがなぜか光り輝くように、牧師のミッションは教会に集う一人一人が輝くように磨き、光を当ててあげることではないか、そんなことを思わされました。長い一日となりましたが、たいへん意義深いミニツアーでした。

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2011年7月24日 (日)

教会のミッションとは

2011.7.24(文月) NO.331 

みことばを語る 使徒4:23-31

日本女子サッカーチーム「なでしこジャパン」のワールドカップ優勝は、日本中に感動と勇気、元気を与えたできごとでした。チーム全体が一つになって目標、夢をかなえるために突き進んで行く姿が、感動を与えたのだと思います。

私たちがあることのために一つとされるとき、大きな力を発揮できることは、経験的にも知っていることです。しかしながら、何のために一つとなっているか、何に向かっているのかということは、良く吟味されなくてはいけません。時に人は神様に逆らうために一つとなることがあるのです(26b)

民の指導者に捕らえられたペテロとヨハネは、議会で堂々と弁明したので、脅された上で釈放されました。二人は仲間のところに帰ってくると、彼らが受けた仕打ちを残らず報告しました。教会の交わりは、苦しみをも互いに分かち合い、お互いに支え合うものです。実際には、教会に集っている人数によって難しいことであるかもしれませんが、本音で語り合い支え合う「仲間」のいることは幸いなことです。

この教会は、神を賛美することで心を一つにしていました(24)。神様は、天と地と海とその中にある全てのものを造られた創造主です。その方が人として来られ、私たちに救いのみわざを成し遂げくださいました。しかし、この世の人たちはそのことを知らず、また受け入れず、かえって神様に反抗してキリストを十字架につけて殺してしまったのです(25-28)。どのような中でも、造り主を覚え、この方に目を向けて賛美することは、私たちを再び立たせる力となります。私たち自身が、この神によって造られた尊い存在であるからです。

教会は、祈ることにおいて心を一つにしていました。これは教会が誕生する前から見られた、弟子たちの営みでした(使徒1:14)。確かに、キリスト者が二人、三人と集うところに、主はいてくださいます。共に祈ることが、かたちの上ではできるでしょう。しかしお互いの間に、互いに尊敬し信じ合うことができなければ、一つになって祈ることは難しいのではないでしょうか。共に集って祈ることを大切にする教会の交わりを、さらに深めていきたいものです。

またエルサレムに生まれた教会は、みことばを語ることにおいて一つでした(29)。ピリピの監獄捕らえられたパウロも、苦しみの中で祈りの要請をしましたが、それはみことばを語ることでした。これこそが、教会の使命であり、ミッションなのです。

それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。(ピリピ1:20)

私たちの神様が、3つのご人格を持ちながらも一つであるように(ヨハネ17:11)、教会が一つであるとき、困難の中でも教会の使命を果たしていくことができるのです。

2011年7月19日 (火)

ネバーギブアップ!

7月18日の早朝、なでしこジャパンの優勝をライブで見ていた人たちは、一日中興奮していたのではないでしょうか。わたしも、この日はどこかに出かけようと思っていたのですが、表彰式まで見てしまい、結局ずっと家にいました。どんなことがあってもあきらめない、ネバーギブアップ!の精神と努力が、彼女たちに「世界一」のタイトルを与えたのだと思います。

このことは、いろいろな場面で言えるでしょう。春日部の市民ランナーといえば、わが伊藤夕子さんと、東京マラソンで日本人1位(総合3位)になった川内優輝さんです。NHK埼玉作成の川内さんを取り上げた番組が、18日の夜にありました。その番組で、伊藤さんと川内さんに共通した体験のあることを発見しました。彼は、市民ランナーとして自己流トレーニングに励んでおられますが、その一環として、故人となったお父様の故郷で行われたウルトラマラソン50キロの部に出場しました。高温多湿の中で、かなりペースを上げて走っていたのですが、ゴール目前にダウン。救急車で運ばれました。伊藤さんも、昨年行われた奥武蔵ウルトラマラソンでぶっ倒れ、救急車で搬送されました。二人とも、ウルトラマラソンでぶっ倒れ、あえなくリタイアされたという共通の体験があるのです。

伊藤さんは、この経験と、酷暑の中で走った神宮24時間チャレンジの経験を生かし、サロマ湖ウルトラマラソンでは自己ベストを更新し、3位に入りました。また、川内さんは「皆さんにご迷惑を掛けたけれど、自分を追い込むことができた。これで世界大会の備えをすることができる」という趣旨のことを言われていました。

ぶっ倒れて、救急車で運ばれた、それがどうした、というわけです。そこまで自分を追い込み、その経験でめげることなく、帰って修正して本番に臨み結果を出していくわけですね。まさに、ネバーギブアップです。これは大いに教えられることでした。

もう一つ二人の共通点は、そんなすごいレースの翌日、ちゃんと勤務に就いているということです。普通だったら、あり得ないと思います。いつの日かお二人がそろって「春日部の市民ランナー、夕子と優輝のトークショー!」なんて実現したら、面白いだろうなと思ってます。川内さんのでる世界陸上男子マラソン(韓国)は9月4日、伊藤夕子さんの走るウルトラマラソン世界大会(オランダ)は9月10日、そしてヤマリンの誕生日は9月25日、今年の9月はすごいぞ!

2011年7月17日 (日)

しっかりとしたいあなたへ

2011.7.17(文月) NO.330

確信をもって立つ 使徒4:13-22

今の時代は「ポストモダン」の時代といわれます。この時代の特徴の一つは、多様性を認め、絶対的な基準を認めるのを拒むことがあると思います。確かに私たちの世界にはいろいろな異なる考えや価値基準があるのですが、しっかりと寄り頼むものが無いので、絶えず不安を抱えるということが起こります。

本日の箇所は、初代教会が経験した最初の迫害と言える場面です。ペテロとヨハネが捕らえられ、「あの名によって語ってはならない」と命じられたのです。いわば、信教と言論の自由が抑圧された出来事と言っていいでしょう。豊臣秀吉とその後の徳川時代に、キリスト者は迫害を受けました。太平洋戦争中は国家によって宗教がまとめられ、天皇を現人神とする国家神道以外の信仰の自由は認められませんでした。今日では考えられないようなことが、起きたのです。

しかし捕らえられたにもかかわらず、ペテロとヨハネは大胆に立ち(13)、かえって福音を明確に語ったのでした(20)。彼らのこのような確信を持った大胆な行動は、どこから出てきたのでしょうか?

二人には、救いはイエスキリストによる以外無いという確信がありました(12)。この救いという言葉は、22節の「癒やされた」という言葉と同じです。確かに、病気が治ることは、その人にとって救いとなります。しかし聖書で言う救いは、神様によって罪が赦され、人間の最も中心的なことである神様との関わりが回復され、神に造られた人としての歩みをすることです。宗教としてキリスト教が一番優れているというのではなく、人間の罪からの救いは、イエスキリストによって成し遂げられるということなのです。

また二人は、自分たちの生きる基準を持っていました。従うべきルールを確立していたのです。それは、人に従うのでは無く神に従うというルールです(19)。これは、今年度のみ言葉に通じるものです(使徒5:29)。確かに私たちは、この世の権威に従い、社会のルールを守ることは大切です(ローマ13:1)

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。ローマ13:1

しかし、人の良心がこの世の権威によって蹂躙されるとき、その社会は不幸な社会となります。どのような困難の中でも、神様に従うことをやめることはできません。イエスさまこそが、私たちを生かし命を与えてくださったからです。

このような二人を支える主にある仲間がいました(23)。大勢の主にある兄弟姉妹が彼らのために祈り、ささえ、一緒になってイエスの御名を大胆に語っていったのです(2931)。迫害の時代にも、信仰者を支える交わりがあったのです。主にある交わりが、一人では弱い者を立たせてくれるのです。

神様のくださる確信に立って、この時代の証し人として、今週も歩むことができますように。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。ヘブル10:35

2011年7月10日 (日)

疲労回復、健康回復

2011.7.10(文月) NO.329

回復の時 使徒3:1726

暑い毎日が続いています。節電ということで、エアコンで部屋を冷やすことにも気を使い、暑さのために疲れがたまっている方もあることでしょう。疲労回復に役立つことはないかと、思わず回りを眺めてしまいます。

美しの門にいた足の不自由な人のいやしに続いて、集まった人々にペテロはイエスキリストの物語を語りました。それは、人々が悔い改めて神に立ち返るようにという、福音の中心となる説教でもありました。

世界保健機関が10年ほど前に健康の定義の改正案を提出しましたが、そこには健康であるとはSprituality(霊性)も健全であることがうたわれていました。この案は可決されませんでしたが、人間の霊性をとき、人の存在の根源を考えさせる機会となったと思います。

ペテロは、一人の男性の病がいやされることをきっかけとして、神に造られた人間の真の回復について語りました。また、イエスを十字架につけて殺したのは、人々が無知であったためであるとも語りました。パウロが経験したように、無知の故に神様のあわれみがありました。

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです1テモテ1:13

これは神様が預言者をとおして、あらかじめ語られていたことであり、主なる神から回復の時が与えられるのです。この「回復の時」とは、しばらくの猶予期間が与えられて元気になるいう意味があります。多くの英訳の聖書では、リフレッシュという言葉が使われています。心や体のリフレッシュのために、様々なことをされていることでしょう。このようなことと共に、霊性のリフレッシュが私たちには必要なのです。なぜなら、人は神のかたちに造られ、命の息が吹き込まれた特別な存在、霊的な被造物だからです。しかしこの神に造られた人間は、自分勝手な道を歩むようになり、人としての道を外れてしまいました。これが「罪」です。罪とは、的外れなことです。しかしイエスは十字架に死んで、ご自分の命と引き替えに、私たちを正しい道に立ち返るせてくださいました。必要なことは、方向転換をして、正しい道を歩むことです。すなわち、悔い改め(メタノイア)と信仰です。これによって、神様との関係が回復(リフレッシュ)されて、神と人に喜ばれる道を歩むことができるのです。

「回復の時」は、イエスキリストが再び来られることによって新しい天と地になることをも表しています。未来において、神様との関係を回復した全ての被造物が入れられる、神の国が実現するのです。これは私たちにとって、大いなる望みであり、慰めの約束ではないでしょうか。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2:20 

2011年7月 8日 (金)

豊かさの定義

 久しぶりに銀座に行ってきました。もう「ギンブラ」なんていいませんよね・・・。

昨年丘の上記念会堂で結婚式を挙げ、先月の聖霊降臨日に洗礼を受けたOIAIさんのグループ展があったので、これは是非とも見たいということで、出かけた次第です。

今回のテーマは「豊かさの定義」。私の名前でもあるので、これはもう見ないわけにはいきません。彼女を含め、千葉大学在学のかたや卒業された方6名と、指導されている先生の作品が展示されていました。

会場は細い路地に建つビルの最上階で、そこからは銀座教会が有楽町駅方面に見えました。

OIAIさんの作品は、琥珀や塩を布を塗りつけた(吹き付けた?)もので、道ばたに咲いていた植物もありました。

~目に見えないもの~

目に見えないものを見ようとすること

目に見えないものを感じようとすること

目に見えないものを大切に思うこと

全ての出来事と全ての変容が

導かれた道を進む

必然の存在であること

私としては、真ん中の作品が気に入りました。改めて豊かさとは何か、自分のことと併せて、今の時代を考えさせられ、有意義なときとなりました。

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2011年7月 3日 (日)

名は体を表す

2011.7.3(文月) NO.328 

イエスの御名によって 使徒3:1117

私の郷里新潟県にある松之山温泉は、日本三大薬湯の一つです。いろいろな分野で名の通ったものは、その名前自体に何か力があるように思われてしまいます。「この温泉に入った」と言うだけで、元気が出てくるように感じるものです。

生まれつき足の不自由な男がペテロとヨハネによっていやされると、彼は二人にとりついて離れず、やがて大勢の人々がソロモンの廊にやって来ました。時に、良いことをして差し上げた相手でも、あまりつきまとわれるとうっとしく感じるものですが、ペテロはこの人を脇に置きながら、ことの顛末を話し始めました。どんなときでもみことばを宣べ伝えるチャンスとする、伝道者としてのスピリットを見る思いです。

やって来た人々は、ペテロたちに何か特別な力があると思いました。しかしペテロはこの男性がいやされたのは、ユダヤ人が知っている「アブラハム、イサク、ヤコブ」の神によることであり、彼らが十字架につけたイエスキリストの御名に癒やしの力があり、その御名を信じるこの男の信仰が彼をいやしたいうことを語ったのです。さらに、葬られたイエスはよみがえり、自分たちはその復活の証人であることも言明したのでした。

聖書には、多くの奇跡物語が記されています。それは、イエスキリストの御名にこそ神の力が表されることの「しるし」としての「奇跡」でした。しかしながら、イエスさまや弟子たちは、いつも奇跡を行っていたわけではありません。今日でも、奇跡的にいやされたり、思いがけないことが起きて物事が好転し、おもわず「それは奇跡だ!」と喜んでしまうようなことがあります。しかし、この男が自分の身に起きたことで神を賛美したように、たとい肉体のいやしがなくてもなお神を賛美できる、苦しみに遭ったことを幸いと言えることが、まさに神様のなさった奇跡と言えるのではないでしょう。

あるとき弟子たちが生まれつきの盲人を見て、イエスに問うた出来事がありました(ヨハネ9)。これを問うたのは、ペテロかヨハネであったのかもしれません。彼らは、この人や親の罪が身に不幸を招いたと考えたのです。しかしイエスさまは、苦しみの中にある者が福音の光に照らされ、罪が赦されるという根本的な癒やしこそが、神のわざであると言われたのでした。

ペテロとヨハネは、神殿におかれていた哀れな男に目を留め、イエスの御名によって癒やしのわざをいたしました。彼らは、イエスの十字架と復活、そして聖霊の満たしを経験して変えられており、イエスの御名にこそ人を生かす力のあることをここで示したのです。

今日も、それは変わらないのです。

2テサロニケ112 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。

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