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2011年7月 3日 (日)

名は体を表す

2011.7.3(文月) NO.328 

イエスの御名によって 使徒3:1117

私の郷里新潟県にある松之山温泉は、日本三大薬湯の一つです。いろいろな分野で名の通ったものは、その名前自体に何か力があるように思われてしまいます。「この温泉に入った」と言うだけで、元気が出てくるように感じるものです。

生まれつき足の不自由な男がペテロとヨハネによっていやされると、彼は二人にとりついて離れず、やがて大勢の人々がソロモンの廊にやって来ました。時に、良いことをして差し上げた相手でも、あまりつきまとわれるとうっとしく感じるものですが、ペテロはこの人を脇に置きながら、ことの顛末を話し始めました。どんなときでもみことばを宣べ伝えるチャンスとする、伝道者としてのスピリットを見る思いです。

やって来た人々は、ペテロたちに何か特別な力があると思いました。しかしペテロはこの男性がいやされたのは、ユダヤ人が知っている「アブラハム、イサク、ヤコブ」の神によることであり、彼らが十字架につけたイエスキリストの御名に癒やしの力があり、その御名を信じるこの男の信仰が彼をいやしたいうことを語ったのです。さらに、葬られたイエスはよみがえり、自分たちはその復活の証人であることも言明したのでした。

聖書には、多くの奇跡物語が記されています。それは、イエスキリストの御名にこそ神の力が表されることの「しるし」としての「奇跡」でした。しかしながら、イエスさまや弟子たちは、いつも奇跡を行っていたわけではありません。今日でも、奇跡的にいやされたり、思いがけないことが起きて物事が好転し、おもわず「それは奇跡だ!」と喜んでしまうようなことがあります。しかし、この男が自分の身に起きたことで神を賛美したように、たとい肉体のいやしがなくてもなお神を賛美できる、苦しみに遭ったことを幸いと言えることが、まさに神様のなさった奇跡と言えるのではないでしょう。

あるとき弟子たちが生まれつきの盲人を見て、イエスに問うた出来事がありました(ヨハネ9)。これを問うたのは、ペテロかヨハネであったのかもしれません。彼らは、この人や親の罪が身に不幸を招いたと考えたのです。しかしイエスさまは、苦しみの中にある者が福音の光に照らされ、罪が赦されるという根本的な癒やしこそが、神のわざであると言われたのでした。

ペテロとヨハネは、神殿におかれていた哀れな男に目を留め、イエスの御名によって癒やしのわざをいたしました。彼らは、イエスの十字架と復活、そして聖霊の満たしを経験して変えられており、イエスの御名にこそ人を生かす力のあることをここで示したのです。

今日も、それは変わらないのです。

2テサロニケ112 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。

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