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2011年9月

2011年9月26日 (月)

誕生日でした

昨日9月25日は、私の誕生日でした。中央会堂での奉仕でしたので、多くの方から声を掛けていただき、「まんじゅう」をいただきました。m(__)m

コイノニアに掲載された文章を、アップさせていただきます。みんなに支えられて、ここにいることを、やはい感じずにはおれません。また一回り、よろしくお願いします。

「還暦とは、干支(十干十二支)が一巡し、起算点となった年の干支に戻ること」と、ウキペディアにありました。還暦の祝いに赤色の頭巾やちゃんちゃんこを贈るのは、生まれたときに還るという意味からであることは、ご存じの通りです。

その還暦まで、あと1年、50代最後の年となったというのは、誰よりも私本人が驚いております。アンビリーバーであり、なかなかこの厳粛な事実は受け止めがたいものがあります。

しかし「還る」ということで思いを巡らすとき、この教会での牧師として奉仕させていただいている原点に立ち返る思いがあります。高校3年生の1月に救われ、新潟から千葉県に移り住んで、春日部教会に導かれました。初めて行った教会の受付の方が「私の両親も高田出身よ!」と言って温かく迎えてくださったのは、不思議な神様の導きです。下鳥信二、静江夫妻のお嬢様でした。2年生の冬に、大学近くのアパートを出て友人の小林兄と東岩槻の集会所に移り住んだとき、親は「なぜ学校から遠くすむのか」と怒り、4年生の時、大学卒業後は神学校に行くと告げたときには大いに落胆し、最終学年後半の仕送りはストップとなりました。成人式には帰らず、卒業式にも出席しませんでした。全ては、神様のためにここで時間をささげよう、と思ってのことでした。

しかし、それは本当の献身であったのか、むしろ親不孝なことではなかったのか?と自問するようになりました。それでも「おまえはT牧師にだまされている」と言った母も救われ、父と共に洗礼を受ける恵みに預かりました。教会の交わりの中で、晩年を過ごすことができたことを思うとき、あのときがやはり献身の時、主の導きを第一にした時であったと確信するのです。

還暦まで生かされていれば、あと1年。「私の生涯を神様にささげます」と祈った献身の志に還って、その思いを深める年としたいと願っています。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」箴言3:56

2011年9月25日 (日)

憧れの東後先生と出会った

学生時代、NHKラジオから流れる「英語会話」の声の主に、初めてお逢いしました。いわずと知れた、東後勝明先生です。東地区協議会の信徒研修会の講師としてお招きし、心に染みるお話しをしてくださいました。

今回のテーマは、「輝くセカンドライフ」。定年や老後をむかえ、若いときに比べれば悲観的な材料の多い年代の中で、イエスさまの生かされて輝いて過ごす人生の養生訓をうかがいました。

夕焼けを見ると、空襲を思い出すという先生の生い立ちから始まり、まずはファーストライフのおはなし。そしてご自分のお嬢様が不登校、重い心の病にかかられた事に話が及び、そんな中でも「安心していられる」ことが、自信を持って生きていく事につながっていく事を伺いました。

講演会後の交わりの中で、「ラジオ英会話」は、当時の英語教育の重鎮ともいえる松本亨先生のあとをついでの番組だったので、その時のお気持ちをうかがいました。大きなプレッシャーだったそうです。しかし松本先生の「長く番組を続けるには、俺が一番英語がうまいのだ、というくらいの気持ちでやらないとだめだよ」との言葉に勇気付けられ、長く続ける事ができたと話してくださいました。松本先生も、このようにして後継者を育ててこられたのだと感心し、東後先生のプレッシャーをはねのけるその姿に、改めて敬意を感じた次第です。

地区の行事でありながら、自分にとっても励まされたひとときとなりました。But、しかし、先生と一緒にツーショットをとってもらおうとデジカメを持っていったのに、すっかり忘れてしまいました。残念!

東後勝明先生の著書

「ありのままを生きる~人と自分を愛する為の聖書養生訓」いのちのことば社

「あなたはあなたでいい~あとはイエスにゆだねて」新教出版社

聖橋は復活に導く

2011.9.25(長月) 中央

私たちの望み ローマ81825

91日は防災の日。1923(大正12)91日に発生し、10万人を超える死者、行方不明者が出た関東大震災を歴史の教訓として記念した日です。今年の311日には、巨大地震と津波の発生、それに伴う原発事故が起こり、懸命の復旧、復興が今もなされています。また台風による大きな水害が、四国、近畿地方を襲いました。日本中が自然災害の中にあるような状況です。

今朝の開かれているみ言葉には、苦しみが記されています。

1は、被造物の苦しみです(1922)。神様の造られた世界、自然界は、もともと良いものでした。神様の造られた秩序が保たれていたのです。今回の震災で、美しい故郷が壊れてしまったという経験を多くの方がされたことでしょう。しかし人手が入ることによって自然破壊(環境破壊)がおこり、汚染された食べ物が出回り、人間だけでなく地球上の生命の生活が脅かされています。自然災害は、人間にとってはたいへんな苦しみをもたらしますが、そのような中には人間が引き起こしたものであるといわざるを得ないことがあります。自然界は、神の造られた秩序ある世界に回復することを願っているのです。

2は、私たち人間の苦しみです(23)。これは自然災害による苦しみだけではありません。円高などによる経済的な苦しみ、働くことのできる知力や気力があっても、その働く場所が無い、等社会的な苦しみがあります。また一人の人間として、肉体だけで無く、その心に痛みや苦しみを持っている人たちも大勢あります。

このような苦しみの原因の根本は、私たちの中にある「罪」であるといいます(ローマ7:17)。神から離れ、自己中心になっている私たちの姿です。

ですからそれを行っているのは私では無く,私のうちに住み着いている罪なのです。

しかしこのような苦しみは、取るに足りないというのです(18)。そんなことを簡単に言っていいのか、と思いますが、ここには理由があるのです。苦しんでいる被造物、この自然界は、やがて回復されるのです(21)。永遠の都が神様によってもたらされるのです(黙示21:1)

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り,もはや海も無い。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て,天からくだってくるのを見た。

その中にいる私たち人間も、あがなわれるのです(23)。それは、この御霊の深いうめきによる執り成しによるのです。ここに私たちの希望があります。「あがない」とは、奴隷であった人が自由人として買い取られることを意味します。このあがないこそ、他の教えや宗教にはない、聖書の語るユニークなメッセージであり、イエスキリストの十字架は、あがないのみわざを示す歴史の出来事だったのです。このあがないは、私たちを永遠の都とである天国志向の生き方へと,私たちを造り変えてくれるのです。御茶ノ水駅から見える聖橋は、湯島聖堂とニコライ堂を結ぶ橋です。ニコライ堂は、東京復活大聖堂というのが、正式な名称です。イエス様は私たちを復活へと導く橋として来てくださったとも言えるお方でしょう。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。ピリピ320

2011年9月23日 (金)

久しぶりに、10キロ走りました

台風一過の、秋分の日。皆様は、どんな一日でしたでしょうか?

午前中は、台風で荒れた庭の掃除。特に、茶室のある坪庭にの落ちた枝や倒れた草花を直しました。大きい柳を立てるのが、ちょっとたいへんでしたね。お茶の先生からいただいた、ツワブキを植えて、作業完了。

1時頃にお気に入りの大勝軒に行ったのですが、なんと長蛇の列!ラーメンはあきらめて、バナナジュースを飲んで走ってきました。丘の上からハラッパークの往復、約10キロです。久々の10キロ超えで、途中は歩くこともあり、71分もかかってしまいました。

その後は、家の奥さんといっしょに入院された方を見まい、夕食。澄んだ空気の中を走る快感を味わうところまで行きませんでしたが、また走り始めました。

END

2011年9月18日 (日)

目をさましていなさい!

2011.9.18(長月) NO.337 

恵みの中に立つ 1ペテロ5:6-11

この世の終わり、聖書の示す終末のしるしは、イエスさまが弟子達にオリーブ山から教えられたので、オリーブ講話ともいわれています(マタイ2425)。ペテロもやがて訪れる終わりの日に備えて、今も語り続けています(1ペテロ4:7)

 

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

イエスさまが語る世の終わりは、ご自身が再びこの世においでになること、すなわち、「イエスキリストの再臨」と関わっています。再臨はいつあるのか、そのしるしを知ることができれば、世の終わりに備えることができます。マタイ24にはそのしるしが丁寧に書かれ、その後半と25章では、たとえ話を用いて語れています。要約すれば、世の終わりは避けられないことあり、その日やイエスさまの再臨を注意深く待つことが大切である、ということでしょう。しかし世の終わりは、神様によってもたらされる新天新地のはじまりであり、私たちはここに希望を見いだすことができます。

それはただじっとして待っていることではありません。幾多の苦難を通ってきたペテロは、その手紙で読者に世の終わりに備えるとはどのようなことかを語っています。4つの命令形に注意して、見ることにしましょう。

6節には「へりくだりなさい」とあります。若い人だけでなく、長い人生を送ってきた人にも同様に命じられていることです。心を分裂させるのでは無く、神様に心配事を委ね、神が解決してくださることを信じるのです。

8節には「身を慎みなさい、目を覚ましていなさい」とあります。この命令は、イエスさまの説教の中でたびたび語られたことで、世の終わりのしるしをしっかりと見る霊的な眼を見開いていることにも通じます。

9節には「立ち向かいなさい」とあります。悪魔は、いつも地上のことだけに私たちの思いを向けさせようとします。しかし私たちが見ているもの、この世に存在していると思うものは、すべて無くなってしまうのです。悪魔の策略にしっかりと対抗しなくてはなりません(エペソ6:14-18)

そして11節には、「恵みの中に立っていなさい」とあります。このような備えは、自らの力でできることではありません。神は私たちに救いのみわざを成し遂げるために、イエスキリストをこの世に遣わされました。そして、イエスキリストを信じる者をご自身の大きな愛の中に、守りの中に入れてくださったのです(コロサイ1:13)。どんなことがあって、この大きな恵みの中にとどまっている必要があります。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

世の終わりの日には、多くの惑わすものが現れて、私たちをこの神様の恵みから引き離そうとします。しかし神の恵みの中に入れられていることを信じ、そこから来る平安な心が、この世の終わりにあっても確かな歩みに導くのです。

2011年9月16日 (金)

オットセイのショー

残暑の厳しい、9月16日、めぐみ幼児園恒例の秋の遠足に行って参りました。はじめて、丘の上から自転車で走り、約30分で新しい村に到着。そこで葡萄を買って、園児達と入園しました。

さすがに暑いので、動物たちもいまいち元気がありません。けれども、 オットセイのショーには大勢のお客さんが集まり、お姉さんと息の合った「芸」を披露してくれました。お客さんが熱中症にならないようにかどうか知りませんが、比較的短い時間で終わりました。

それで、オットセイ君のジャンプ輪くぐりや投げ輪のキャッチには大きな拍手が上がっていました。今までみた中で、ベストなパフォーマンスでした。

開園30周年を祝って、こんな飾りができていました。明日オープンです。

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2011年9月12日 (月)

月天に在り

本日(9月12日)は、十五夜です。幸いにも、月は雲に隠れることなく、秋の夜を楽しむことができました。

お茶の稽古の床には

水を掬すれば、月天に在り

との書がかかっていました。まことに美しい言葉だと感じました。聖書には

昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。

詩篇121:6

とあります。涼しい夜でしたが、月の明かりに何となくあたたかさ、優しさを感じました。丘の上の 月 天に在り をお楽しみください。

Dscf4463 Dscf4472 礼拝堂

秋の花

                                              

         駐車場からの満月

2011年9月11日 (日)

あなたの宝物はどこに隠してありますか?

2011.9.11(長月) NO.336

天に宝を ヘブル1113-16

本日は、3月の東日本大震災から半年、アメリカニューヨークの貿易センタービルやペンタゴンがテロリストによって襲撃されてから10年目にあたります。衝撃的で、たいへん辛い出来事ですが、改めて国家とは故郷とは何か、国を愛し守ることはどういうことなのか、考えさせられるきっかけともなりました。

多くの人にとって、自分の故郷が破壊されることは、耐えがたいことだと思います。まして、自分の国が不当に攻撃され危険にさらされることは、許しがたい暴挙でしょう。ですから、「故郷」の歌詞にあるように、人は故郷を大切に思い、自分の国を守ろうとするのです。

しかしながら、その故郷や国は、いつまでも続くものではありません。それらを最も大切なものとすることも、はたしてどのような意味があるのでしょうか。再来年、2013年のNHK大河ドラマの主人公は、新島八重とのことです。彼女の夫は同志社大学の創立者であり、安中教会とゆかりの深い新島襄です。彼が当時の国禁を犯して米国に渡ったことはよく知られていますが、2首の歌が残っています。渡米する前の歌は「もののふの思い立田の山紅葉 錦着ずしてなど帰るべき」です。志を抱き、それが成し遂げられるまでは帰らないとの思いが表れています。しかし帰国したときに詠んだ歌は「故郷に飾る錦は筺の中 身に纏う時にあらねば」です。名声やこれまでの業績を捨てて、ありのままになって神様と日本のためにつくそうとする思いを感じられます。いわば、神の国の実現のために、天国を目指して進むことが本意であるということでしょう。

天国を目指して進むことは、地上の生活をいい加減にしたり、苦しみを回避することではありません。アブラハムは、地上では旅人であり寄留者であることを知っていました(13-16)、エジプトを脱出した民は、あらのを放浪しなくてはなりませんでした(23-31)。福島の地から避難しておられる佐藤彰先生は、「流浪の教会」の中で、3月の震災と原発事故による経験を出エジプトに倣って書き綴っておられます。故郷に帰ることのできない苦しみが、そこには記されています。イスラエルの民は他国から蹂躙を受け、捕囚の民ともなりました。しかしそのような苦難の中で、約束の地に帰ることができたのです。

このようなことは、イエスさまの言葉に置き換えると、「天に宝を積む」生き方と言えるのではないでしょうか。私たちの持っているもの、目に見えるものは、私たちの最終的なよりどころではありません。そのようなものだけに執着し、過剰な期待をしていることが、神様の道を歩むことを妨げているのです。私たちの主は、帰るべき真の故郷を天に用意してくださっています。これは何が起こっても、失われることはないのです。

マタイ620 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

2011年9月 5日 (月)

ヒルトップリンガース、初の礼拝奉仕

丘の上メンバーによる、トーンチャイムとハンドベルのグループ、ヒルトップリンガースが初めて礼拝での奉仕を致しました。ある中学生は「緊張して、前の日は眠れなかった」とのこと。当日は、礼拝開始後にハプニングもあり、賛美するまでそれぞれに緊張を強いられたようです。

この日のために、ELC受講生でもある音楽家のYさんに、練習を指導していただきました。この方のお母様の出身は新潟県松代で、以前ブログにも書きました。また、今月の15日には、草加キングスガーデンにて、敬老の集いのピアノ演奏もしてくださるということで、神様のご縁を感じます。

礼拝には、メンバーの家族が来てくださる方もあって、感謝でした。関東大震災や、3月の東日本大震災、そして台風12号による被害を受けた方々の助け、復興を願って礼拝をささげました。なによりも、私たちがまずイエスキリストによって罪を砕かれて復興されることが必要であることを、覚えさせられました。

今年のクリスマスでの、このメンバーがさらにレベルアップして奉仕ができるようになることを願っています。

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2011年9月 4日 (日)

大震災

2011.9.4(長月) NO.335 

私たちの望み ローマ81825

91日は防災の日。1923(大正12)91日に発生し、10万人を超える死者、行方不明者が出た関東大震災を歴史の教訓として記念した日です。今年の311日には、巨大地震と津波の発生、それに伴う原発事故が起こり、懸命の復旧、復興が今もなされています。何かの記念日として定めることによって、この日を忘れないようにしなくてはいけないと考えています。

東日本大震災を覚えつつ今朝のみことばを開くとき、そこに3つの苦しみを見ることができると思います。

1は、被造物の苦しみです(1922)。神様の造られた世界、自然界は、もともと良いものでした。神様の造られた秩序が保たれていたのです。今回の震災で、美しい故郷が壊れてしまったという経験を多くの方がされたことでしょう。しかし人手が入ることによって自然破壊(環境破壊)がおこり、汚染された食べ物が出回り、人間だけでなく地球上の生命の生活が脅かされています。自然災害は、人間にとってはたいへんな苦しみをもたらしますが、そのような中には人間が引き起こしたものであるといわざるを得ないことがあります。自然界は、神の造られた秩序ある世界に回復することを願っているのです。

2は、私たち人間の苦しみです(23)311による被災者の方々、その家族の方々は、今もなお苦しみの中にあります。いろいろな方面からの助けや支援がありますが、その苦しみをどれほど私たちは共感し、共に悲しむことができるでしょうか。まさに「心の中のうめき」を持ちながら、日々を懸命に過ごしておられるのだと思います。

そして御霊の苦しみがあります(26)。神様の苦しみと言っていいでしょう。この世の悲惨な様をご覧になっている神様が、その衷心から深い悲しみをもってうめき、祈っておられるというのです。何という神のあわれみでしょうか!

この御霊のうめきとも言える執り成しの祈りにより、被造物だけでなく私たちにも望みが与えられているのです。神の子どもとされ、からだがあがなわれるという希望を持つことができるのです。「あがない」とは、奴隷であった人が自由人として買い取られることを意味します。私たちは、自分の思いとは反対に悪(自己中心)の奴隷となり、神様から外れた人生を送ってしまうようになりました。これこそが、あらゆる苦しみの根源である、罪なのです。イエスキリストの十字架は、その罪からの解放を示すシンボルであり、どんなにこの世が揺れ動いても変わることのない私たちの希望を示しています。

関東大震災の悲惨さの中で作られた聖歌397は、このことを良く歌っている賛美歌として、今も歌い継がれています。折り返しの歌詞は、次の通りです。

「なぐさめもて、ながために、なぐさめもて、わがために。揺れ動く地に立ちて、なお十字架は輝けり」

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。ピリピ320

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