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2011年10月30日 (日)

愛されること、愛すこと

2011.10.30(神無月) NO.341

愛にかえる    ルカ15:11-24

 あなたの之までの人生で、最も惨めなときはいつでしたか?それは、どのようなことだったのでしょうか?そしてそのとき、あなたの傍らにいて慰めてくれた人はいましたか?

本日の聖書箇所は、放蕩息子のたとえ話です。オランダの画家レンブラントはこの箇所をテーマにした絵を描いており、「放蕩息子の帰郷」という題がつけられています。現在はロシアのエルミタージュ美術館の所蔵となっています。ここに描かれている息子こそがレンブラント自身であり、見る者に、帰るべき所に帰ることを訴えている作品ととらえることができます。

このたとえ話の登場する弟息子は、父親から財産をもらって遠い国に行き、好き勝手なことをして過ごすのですが、お金が無くなったうえにその国が飢饉になり、豚飼いにまで身を落としたところで我に返ります(17)。自分本来の姿に気づく、ということです。人は鏡に映った自分の姿を見ることはできますが、本当の自分に気づくことは、なかなかできないことです。特に病にかかっているのに、本人がそのことに気がつかない、時には自分は病気ではないと強く主張するとき、なかなかその病は癒えることがありません。ある方が、自分が鬱の時、自分の中にもう一人の誰かがいるように感じた。そしてそれが鬱になっている自分であると気づいたときから、癒やしへの道が開かれていった、と語ってくださいました。この放蕩息子こそが自分であることを気づくことが、回復への第一歩となります。

我に返ったこの息子は、父の元に帰ります。彼の父親は、毎日我が子の帰りを待っており、息子を認めると走って駆け寄り、接吻をし、精一杯の料理でもてなしました。惨めな姿になっていても、自分の子どもであることには変わりありません。父はこの息子を「かわいそうに思った」のです。あわれみの心です。失われていく者を慈しむ思いが、この言葉に秘められています。

この息子は、我に返り、そして父の元に返ることができました。彼を愛する愛のみなもとへ、戻ることができたのです。このたとえ話の主人公は、実はこの父親なのです。この方こそ、私たちの父なる神様であり、私たちを愛し受け入れ、神様の子どもとして生かしてくださる力を与えてくださるのです。それは、イエスキリストの十字架の死を通して、表されました。

私が初めて自分の惨めさを感じたのは、11のけんかに負けた小学生の時でした。そのとき、一人の友人が私をしきりに慰めてくれたのです。彼のいたおかげで、翌日も私は学校に行くことができたのです。振り返ってみると、そこに神様がいてくださったのだと思い当たります。

あなたが最も惨めなとき、主なるイエスキリストが共にいてくださる。この方にこそ、私たちのかえるべき真の愛があるのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。1ヨハネ4:10

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