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2011年11月 6日 (日)

いつも近くにいる者ほど、愛に気づかない

2011.11.6(霜月) NO.342

わたしの愛する子  ルカ15:2532

 先週は、放蕩息子のたとえ話の前半からの説教でした。父が弟息子を迎える場面に、兄はまだ登場していません。宴会の最中に、畑から帰ってくるのです。しかしレンブラントの描く放蕩息子の帰還には、抱き合う父と弟の傍らで、腕を組み、まるで弟を見下げるような硬い表情で兄息子が描かれています。彼の心境は、どのようなものだったのでしょうか。

私も二人兄弟の長男で、このお兄さんの気持ちがわかるような気がします。畑から帰ってきた兄が、賑やかな音楽や笑い声を聞いたのでしょう。どこに行ったかわからなかった弟が帰ってきたからといって、こんな騒ぎをしていることに腹を立てたのだと思います。2830節にある兄の言葉は、普通の考え方からいっても、もっともなことであると思われます。まじめにやっていた者が、まるで損をしたように感じるところです。

放蕩三昧をして帰ってきた弟の無事を、父親と同じように喜ぶことができなかったのです。共に喜び、共に泣くことが勧められていますが、共に喜ぶことのほうが難しいことかもしれません(ローマ12:15)。愛されていることを、素直に認めることができないからです。

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

父親は、この兄をなだめようとしましたが、頑としてそのいうことを聞きません。そこで父はついに、こう言いました。「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは、全部おまえのものだ。」これは、「どのようなことが兄弟の間でおきようとも、私が最も愛し頼りにしているのは、他ならぬお兄ちゃん、おまえなんだよ」と言っていることに他なりません。これもまた長男としての私にとって、わかるところがあります。

この兄息子は、父の元にいたのですが、その愛を感じ、受け止め、答えることができませんでした。愛を拒絶していたのです。人はどんなに愛されていても、そして頭では愛されていることがわかっていても、意地を張って拒むことができます。それほど、私たちの心は頑ななのです。しかしこの頑なさが砕かれるとき、自分を縛っていた律法的な愛から解き放たれ、自由にされるのです。そして本当の喜びを体験できるのです(32)

この兄息子は、私たちキリスト者の姿であると思います。神様と共にいるものが、実は神様の愛に飢えているのではないでしょうか。しかし、レンブラントは、この兄に光を当てています。神様の愛が、この兄にも注がれていることを示しているのです。

主イエスが、公生涯のはじまりに聞いた神様の声が、私たちにも掛けられているのです。

聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

ルカ3:22

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