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2011年12月

2011年12月26日 (月)

丘の上子どもクリスマス~ヒルトップリンガーズが演奏

12月25日、今年も丘の上記念会堂で子どもクリスマスを行うことができました。

昨年に引き続き、ヒルトップリンガーズの演奏。一生懸命演奏してくれました。しんちゃんの腹話術、クイズ、そして私のメッセージ、最後はやはりサンタさんの登場で盛り上がりました。参加してくださったのは、昨年より少人数でしたが、小さなお子さんとお母さんの割合が多かったように思います。

来年は、再び降誕劇になるのでしょうか?楽しみです。Dscf5165 Dscf5175

ヒルトップリンガーズ

来たり聞けや大樹の声

2011年12月25日 (日)

この世は闇か?

2011.12.25(師走) NO.347

闇の中の光  ヨハネ1:114

 2011年も、もうじき暮れようとしています。いろいろなことが起きるのが、私たちの営みであり、毎年のことです。しかし今年は、格別辛く大きな悲しみを全ての国民が体験した年となりました。まさに、暗闇に突き落とされたように感じた人も多かったのではないでしょうか。

この世界が存在するその根源に、創造主である神様がおられることを、聖書は語っています。天地創造のストーリーです。では、天地創造の前には何があったのか?「闇が大いなる水の上にあり」とあります(創世記1:2)。この世界の始まりは、闇だったのです。そこに光ができ、闇との区別が生まれたのです(創世記1:34)。元々私たちの世界は、闇であったことに気づく必要があります。

その世界に、真の光であるイエスキリストが来られたというのが、ヨハネの描く降誕の物語です(6-8)。ストーリーと言うよりも、主イエスキリストの誕生とその生涯の意味を説き明かしていると言っていいでしょう。神が人となってくださったという、物語です。

しかしこの世の人々は、この方を受け入れませんでした。その誕生からして命を狙われるほどでした。マタイが、ヘロデ王による幼児虐殺として描いているとおりです(マタイ2:16)。イエスの伝道の生涯において、弟子ができ、イエスについていった人たちもおりました。しかしその最後は、犯罪人として十字架で処刑されるというものでした。罪状書きはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれており(ヨハネ19:20)、全ての民がイエスキリストを受け入れなかったことを、象徴しています。

私たち日本人も血筋や血脈を大切にする民族だと思います。また、生い立ちや両親との関わりも、その人の人生に大きな影響を与えます。そしてこれは、自分では変えることのできません。

しかしイエスキリストを受け入れた人は新しく生まれ変わり、神の子どもとしての新しい人生が始まるのです(12)。闇の中を歩むのではなく、光の中を歩む人生、真の光に向かって進む生涯が始まるのです。姦淫の現場で捕らえられた不幸な女性の物語のあとのことばは、印象的です(ヨハネ8:12)

イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

老いや病、そして死は私たちにとって暗闇です。之は誰も避けることができません。突然襲いかかる災いも、闇のようなものでしょう。しかしその闇のただ中にイエスキリストがおられるなら、誰でも光の子どもとして歩むことができるのです。

新しい年が、この光の中を歩む年であることを、心よりお祈り致します。

エペソ5:8

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

2011年12月23日 (金)

負けても、勝ちがある

ボクシングでは、亀田兄弟や穗積選手が有名ですね。ライセンスを持っている、いわゆるプロのボクサーのほとんどは、バイトなどをしながらがんばっている無名の選手たちです。

そんなボクサーの一人、私の甥っ子である山田健太郎(Sフェザー級)がランキング入りにぐっと近づく勝利を収めました。時は、12月19日、場所は言わずと知れた後楽園ホール。メーンイベントはフェザー級の日本チャンピオンを決める試合で、そのセミファイナルに登場。相手は日本ランキング3位で、戦績も健太郎の3倍もある選手。今まで一番強い対戦相手で、下馬評は「健太郎の負け」だったと思います。しかし、1ラウンドでいきなりダウンを奪うと、第2ラウンドではゴングが鳴ると同時にラッシュを掛け、TKOにて勝利!会心の勝利に、我々応援団は勝利の雄叫びを上げました。

2006年にデビュー、2007年にはレフリーストップによる負けを喫し、一昨年は勝ちはしたものの、あごの骨が砕かれて入院を余儀なくされました。それを乗り越えての、勝利でした。特に、2007年の時のレフリーは、「レフリーの仕事は将来有望な選手の未来を守ること」とそのときのことを話してくださり、健太郎にもはげましの声を掛けてくれました。そのレフリーはまた、世界チャンピオンになった人も負けを経験している、その経験をどう生かすかが大切であると、諭してくださいました。このような事の中に、そして、本人の努力のたまものとして、この日の試合での勝利があったのでしょう。

Sdscf5087 Sdscf5089 ←右側が山田健太郎

勝利の瞬間!→

所属ジム(全日本パブリック)のトレーナーさんが駆け寄る。前の人、邪魔!

ランキング入りをすれば、さらに厳しい試合が彼を待ち受けるでしょう。そんなときこそ、之までのことを忘れず、さらに精進してほしいと思います。いや、その大切さを、私自身が甥っ子から教えられるときとなりました。

1

コリント9:2627

ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

2011年12月18日 (日)

救い主のしるしは?

2011.12.18(師走) NO.346

飼い葉おけの救い主  ルカ2:17

 待降節の第4週目の日曜日です。暦の関係で、すでに4本のろうそく全てに灯がともりました。まるで今日がクリスマス、救い主の誕生を祝う日のようです。

救い主であるイエスキリストは、どこに生まれたのでしょうか?わたしたちはそのできごとを聖書を通して知っていますが、イエスさまがお生まれになった時代の人は、何を目印にしてそのことを知ったのでしょうか?

野宿で羊のバンをしていた羊飼いに、天の使いが現れました。そして言われた言葉にそのヒントがあります。「あなたがたは布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなた方のためのしるしです。」(ルカ2:12)。家畜小屋の飼い葉おけが、救い主のいるところを表すしるしであるというのです。ヨセフとマリヤは、そのようなことを知らずに、家畜小屋にある飼い葉おけに生まれたばかりのイエスを寝かせました。しかしそれは、宿屋には彼らのいる場所がなかったからでした。二人にとっては、仕方なく寝かせた場所だったのです。

ところが、その飼い葉おけが「しるし」となっている、之はどういうことでしょうか?実は、飼い葉おけこそが、私たちの救い主をお迎えするところを表す象徴となっているのです。飼い葉おけは、言うまでもなく、家畜のえさ箱です。馬の飼い葉おけは、丸くて大きな木製のバケツような形をしています。イスラエルで見た飼い葉おけは、大きな石を四角にくりぬいて作ったものでした。家畜のえさ箱ですから、そんなにきれいなものではありません。普通は、人間の赤ちゃんなどを寝かせることは、衛生上からもしないでしょう。しかしそこに、救いの御子が寝かされていたのです。羊飼いたちは、天使のお告げ通りだったことを見ると、神をあがめ、賛美して帰って行ったのです(20)。救い主に会うことは、たとい苦しみの中にあっても神を賛美する人生へと導くのです。

之は、私たちの心のあり方を表しています。確かに、私たちは良いことを考えまた実行します。しかし人を汚し滅ぼすものは、人の中から出てくる邪悪な思いであり、その罪のリスがあげられています(マルコ7:21-23)。また、造り主である神がいないとすることも、愚かなことであると聖書は記しています(詩篇14:1)

マルコ7:21-23 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

詩篇14:1 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。

このように思う心にイエスキリストがおられるとき、汚れは赦されて清くされ、神を賛美する人生へと変えられるのです。

9歳の時に高熱が原因で脳性マヒとなって体の自由を奪われた水野源三さんは、10代の時に救い主を受け入れ、そんなお体の中でも美しい詩を作られました。47年の短い生涯でしたが、神を賛美する人生を送られたのです。

救いの御子の降誕を

一度も高らかに

クリスマスを喜ぶ賛美歌を歌ったことがない

一度も声を出して

クリスマスを祝うあいさつをしたことがない

一度もカードに

メリークリスマスと書いたことがない

だけどだけど

雪と風がたたく部屋で

心の中で歌い

自分自身にあいさつをし

まぶたのうらに書き

救いの御子の降誕を

御神に感謝し喜び祝う

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。黙示3:20

2011年12月13日 (火)

オルガン演奏JSバッハ

待降節の第3週の日曜日、ララガーデンにてオルガン演奏会が行われました。今年も、昭和楽器さんのオルガン受講生による発表会です。家内は2番目に登場。JSバッハの「天にまします我らの父よ」を演奏いたしました。

広場を歩く人の声は姿も入る、完全ライブ演奏です。イエスさまの教えてくださった祈りが、この街の人たちの届いたら、いいですね。

2011年12月11日 (日)

何のために生まれたか?

2011.12.11(師走) NO.345

仕えるために生まれた方  マルコ1:2339

 今年の新語、流行語大勝のベストテンには入りませんでしたが「自分のできることをやる」ということばも、良く聞かれたように思います。今年の大震災で被災された人たちのことを思ってのことばです。なにかすることより、あり方の方が大事であるとは良くいわれます。しかし実際の所、何かしらの行いがともなうことだと思います。

マルコの福音書には、イエスの誕生物語は書かれていません。バプテスマの活動から始まり、イエスの受洗、そして荒野での試みのあと弟子を召して、福音を宣べ伝える伝えるイエスの活動が描かれています。1章には「すぐに」ということばが6回使われています。マルコの福音書は一番短い福音書でありながら、活動するイエスの姿が活き活きと描かれているのです。

カペナウムの会堂において福音を語ったイエスさまの評判は、ガリラヤ全土に広まっていきました。イエスの元には、話を聞きたいという人だけでなく、病人や悪霊に憑かれた人など、多くの人たちがやって来たのです。その人たちの求めに答え、みことばを語り、癒やしのわざをなさいました。

そんなある日、イエスはさみしいところで一人祈っておられました。どんなに多忙であっても、神様との交わりは欠かさなかったのです。Beingを大切にされる、イエスの姿があります。私などは、何かをして疲れてしまうとつい休んでしまって、神様との交わりが絶えてしまいます。強くされたいところです。

人々は、朝早くからイエスを捜していました。イエス様に会いたい、という思いを強く持っていたからでしょう。弟子たちがそのことを告げると、「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」と言われました。イエスを追ってくる人々を置いて、そこを去って行かれたのです。それは、ご自身の使命、ミッションをしっかり知っておられたからです。自分がこの世に生まれたのは、人々の熱心に答えるのではなく、父なる神様の召しに答えること、神様のみこころを行うためであると言うことを、しっかりわきまえていたのです。旧約聖書の預言者エレミヤも同じ確信を持っていました(エレミヤ1:5)

「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」

イエスさまにとって、それは福音を宣べ伝える事であり、人々に救いをもたらすことでした。

神様は、私たち一人一人を、この世の始まる前から選び、あなたでなくてはできない働きを委ねておられるのです。イエスにとってそれは、人々に仕えることであり、その生涯の初めがクリスマスなのです。

マルコ10:45

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

2011年12月10日 (土)

オルガンの響きがクリスマスを告げる

ひとあし早いクリスマス at Okanoue ということで、オルガン演奏と講演のひとときが、行われました。40名を超える方が集ってくださり、主イエスキリストのご降誕を覚えることができました。寒さの厳しい朝でしたが、晴れわたった良い日であったのは、幸いでした。

第1部は、阪野真結子さんによるオルガン演奏。ピストイアのクリスマスミサ曲に続いて、クリスマス賛美歌メドレーがあり、その後皆さんで「きよしこの夜」をうたい、音楽のプログラムは終了しました。

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第2部は、髙橋敏夫名誉牧師による講演で「御降誕祭の侘び」というテーマで語られました。そもそも佗茶はどこからきたのか、初代長治郎の矢板黒楽茶碗は土器であった、利休の削った竹の茶杓はクルス、炭点前にある白い枝炭はいかなる意味を持つのか、などお茶を習っている方であれば興味深い話しに、思わず身を乗り出すほどでした。そして一期一会、和敬清寂に話しが及び、まぶねの中に寝かされたイエスこそ侘びの局地であることが語られました。小さくもろい私たちのために、救いの御子が生まれてくださったという幸いがここにあるのですね。

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救い主誕生の祝福が、豊かにありますように。

2011年12月 5日 (月)

初冬

今年も早12月、あっという間の一年だったような気がします。

この時期、丘の上では落ち葉拾いにたいへんな時間がかかるのですが、夏にけやきの剪定を思い切っていしたため、その労力は半分以下になったように感じます。しかし、例年落ち葉をもらっていた方が2軒とも震災の影響で、落ち葉から堆肥を作ることをやめてしまわれました。自治体によっては、枯れ葉と一般ゴミを分けて焼却しているところもあるらしいですね。今年は、いろいろなことが変わってしまいました。

そんななかでも、ドウダンツツジや紅葉は見事に色づいています。毎年変わらない、初冬の風景です。いや、少しずつ之も変わってきているのかな?

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2011年12月 4日 (日)

新約聖書の初めは、系図から

2011.12.4(師走) NO.344

キリストの系図  マタイ1:117

新約聖書は、イエスキリストの系図から始まっています。映画「氷点」には、聖書読破に取り組んだ主人公が、マタイの福音書にあるこの系図を読みながら寝てしまうという、思わず笑ってしまう場面がありました。私たちにとってはそれほど退屈と思える系図が新約聖書の最初に書かれていることは、之は読者であるユダヤ人にとっては実に大切であることを、表しています。日本の戸籍の元となった「宗門人別帳」が、徳川時代においては重大であったことと似ています。マタイは、イエスキリストが、旧約聖書の示す歴史の中でユダヤ人として、また預言の成就として生まれたことを示しています。

この系図は、14代が一組となって、3つの区分により構成されています。ダビデ王のヘブル語表記DWDの数字表記を足した4+6+4が14になるので、14代を一組にしたともいわれています。キリストは、ユダヤ人の王として生まれたことを表そうとしたのでしょうか(マタイ2:2)

「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。

それぞれの区切りの最初の人物、事柄は象徴的です。アブラハムは民族の父であり、信仰者の霊的な先祖です。ダビデは言うまでもなくイスラエルの王であり、国家繁栄の基礎を築いた人物です。バビロン移住とは、バビロニア帝国にユダの民が捕囚となったできごとであり、ユダヤ民族にとっては苦難の歴史を刻んでいることばと言えるでしょう。イエスキリストはこのようなことを負って、お生まれになられたのです。

またこの系図には、マリヤ以外に4人の女性が記されています。タマルは人の欲望の中で翻弄された女性です(創世記38)。ラハブはヨシュアが遣わした二人の斥候をかくまってイスラエルを勝利に導いた女性ですが、遊女でした(ヨシュア2)。ルツは、夫を亡くしたあとボアズの妻となった信仰篤い女性でしたが、モアブ人でした(ルツ記)。そしてウリヤの妻とはバテシェバのことであり、夫のいる身でありながらダビデに召された女性でした(2サムエル1112、詩篇51)。この4人は、信仰者ではありましたが、どこか影のある人たちであったと言えるでしょう。そのような人たちを通して、イエスキリストは人としてお生まれになったのでした。

ヨハネが語るように、イエスキリストを信じる者は、人の肉の欲求によって生まれた者ではなく、神によって新しくうまれた者です。それこそが、神のご計画によって生まれた神の家族のいとなみに他ならないのです。

エペソ1:45「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

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