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2012年4月 1日 (日)

イエスのエルサレム入城は、涙であった

神の訪れの時  ルカ1941-46

2012.4.1(卯月) NO.359  

今週は、主イエスの最後の一週間である受難週です。その第1日は、イエスがロバの子に乗って都エルサレムに入る出来事です。人々は棕櫚の葉をもってホサナと叫びながら迎えたので、棕櫚の聖日とも言われています。熱狂してイエスを迎える民衆の姿がありました。ところが、同じ日の出来事でありながら、ここに描かれているイエス様は、泣いておられるのです。かつて友人のラザロが亡くなったという知らせを受けたとき、涙を流されたイエス様の姿を思い起こさせます。人々とは、ま逆の反応です。

なぜイエス様は、都を見て泣かれたのでしょうか?それは、人々はこの都の繁栄がいつまでも続き、弟子たちでさえ神殿の立派さに目を奪われたからでした。しかしイエスは、この都がやがて滅ぼされ、神殿も破壊されることを知っておられ、そのことに気付かないで今の繁栄がいつまでも続くと信じている人々を、あわれまれたのです。自分たちに滅びが迫っているのに、そのことに気がつかないでいることほど、愚かでかわいそうなことはありません。事実、エルサレムはその後ローマ軍によって侵略され、神殿は破壊され、ユダヤ人はまた離散の民となってしまいました。その後エルサレムの市街地は復興されましたが、いまだに神殿は再建されていないのです。

人々が平和と繁栄を誇っているときに滅びが襲う、これは悲劇的なことです。昨年の震災と原子力発電所の事故は、今見ているものが大丈夫である、永遠に不滅である、人々の平和を守ってくれると信じていたものが、大きな力の前にまったく無力であったことを示すものでした。

イエス様の涙のもとは、人々が神の訪れのときを知らないことによります。神の裁きのあることを知らず、あるいは無視して、好き勝手なことをしていることを悲しく思われているのです。誰かが訪ねてくるとわかっていれば、だれもがそれなりに備えをすることでしょう。神の訪れのときに備えるとは、キリスト者にとっては祈りと、愛による行動です(1ペテロ4:7)

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

普段の備えとしては、新年度のみことばのように、神の国と神の義を求めて生きることです(マタイ6:33)

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

そして、イエス様が持っておられたあわれみの心をもってすごすことです。それは、父なる神様にならうことです(ルカ6:36,37)。あわれみの心がなければ、神の訪れのときに備える者とはいえません。

滅び行くものをいとおしむ心、それがあわれみです。受難週の中で、あなたの近くにいる苦しんでいる方にあわれみの心を具体的にあらわすことができたら、その方とともに主の苦しみにともに預かるという幸いを経験できるでしょう。

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