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2012年6月24日 (日)

信仰か行いか

信仰による祝福 ガラテヤ3:614

かなり以前に、「あなたの神は小さすぎる」という本を読みました。内容は忘れてしまいましたが、そのタイトルが記憶に残っています。聖書の示す神さまはすばらしく大きな方なのに、凹レンズで見ると物が小さく見えるように、自分勝手な見方で神さまの祝福を小さくしてはいないかという、信仰生活を点検する本であったたような気がします。

パウロやバルナバの伝道によって、イエス様を信じる人たちが起こされ、教会が誕生しました。小アジアのガラテヤもその伝道の初期に教会ができた地域で、ここにいる信者のために書かれたのが、ガラテヤ人への手紙です。この人たちは、イエス様を信じその信仰にとどまるよう教えられていたのですが、いつの間にかほかの福音(1:6)に移ってしまい、イエス様が見えなくなってしまいました(3:1)。イエスを信じる信仰によって、神さまの恵みの故に救われ義とされるのに、律法を守ることによって救われると説く、異なる教えに惑わされてしまったのです。信者のこのような姿を嘆き、イエスを信じる信仰に立ち返ることを願って書かれたのです。鎌倉時代の後期、親鸞の教えと異なる教えが流布していることを嘆き、正しい教えに立ち返るよう願って弟子の一人(唯円)によって書かれたのが歎異抄です。ガラテヤ人への手紙は、キリスト教版の歎異抄と言えるかもしれません。

パウロは信仰によって救われること、義とされることの例証として、当時の人たちがよく知っている信仰の父、アブラハムを思い起こさせます。彼は、神さまを信じ、その信仰によって義と認められたのです。確かに彼の行いも評価されていますが(ヤコブ2:2024)。しかし、信仰が先に来るのです。他の人を愛するから、愛の人になるのではありません。人を愛せないような者なのに、イエス様がまず私たちを愛してくださった故に、他の人を愛することができるようになるのです(1ヨハネ4:10)

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

イエスキリストのあがないこそ、私たちの救いの根拠であり、教派の違いを超えて、キリスト者が一致できるところです。

もし私たちが信仰を抜きに行いを優先したり、信仰と不信仰の間を揺れ動く自分を責めることだけであるなら、ますます不信仰に陥っていくことでしょう。また、この世界には不条理なことがおこり、神の御心を知り尽くすことはできません。元々この世界は、闇であったのです(創世記1:2)

そのような中にあっても、アブラハムのように神さまを信じ続ける者は、神様の祝福を賜物としていただくことができるのではないでしょうか。この祝福は、人の思いもよらぬ大きなものなのです(3:14)

このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

2012.6.24(水無月) 中央会堂

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