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2012年7月

2012年7月29日 (日)

確かな主のみわざ 使徒15:22-35

道に迷っても、再び新しい道を見いだし目標が定まったなら、もう迷うことはありません。選んだルートを確信して、進だけです。

エルサレム教会で話されたことは、バルナバとパウロと共に、ユダとシラスを使者として口頭と文書でアンテオケ教会に送られることとなりました(22-27)。異なる教えに動揺させられ、迷っていた異邦人キリスト者は、これで自分たちの信仰生活の正しい指針を得ることとなりました。特にイエス様を信じて間もないときには、いろいろなことで信仰に関わる悩みを持ちます。そのときに、教会の仲間が祈ってくれて適切な指導をしてくれることは、後々まで続く大きな助けとなります。

先週お話ししたように、ここで決められたことは、記されている順番が違いますが、偶像に供えた物を避けること、不品行を避けること、絞め殺された物を避けること、そして血を避けるという四点でした(28-29)。この決定を聞いたアンテオケの人たちは大変喜びました(30-35)。ユダとシラスも、パウロとバルナバも共にみ言葉をさらに教え、異邦人の回心者たちを大いに励ましたのでした。迷っているとき、み言葉に立ち返り、これからの道筋を確かめることは、今の時代にも必要な基本的な信仰者の態度でしょう。

この中で特に日本人キリスト者として問題になるのは、「偶像に供えたもの」に関わることでしょう。ここで言う偶像とは、ギリシャ、ローマ神話に出てくる神々や、自然界そのものを神としたり人間を神とする事を指します。日本においては、キリスト教からみて神でないものを表します。神社仏閣、神棚や仏壇などのことです。また、金銭や健康、あるいは特定の人物も心を奪われる偶像になることがあります。皮肉なことに、音楽などで人気のある人たちをアイドルと言いますが、それは偶像(idle)から来ている言葉ですから、おもしろいですね。

ある意味、偶像で満ちているこの国にで、キリスト者はどのように生活したらいいのでしょうか?私は、そのようなものを偶像として頭から退けたり否定するのではなく、それが置かれている意味や、大切にしている人たちの思いを理解することだと思います。そこから導かれる行動が、たとい他のキリスト者と違っていても、その人の確信に基づいた物であれば良いと考えます。元々偶像はないのですから(1コリント8:4)、人につまずきを与えない行動が大切なのです。

主イエスは、律法を廃棄するためではなく成就するために来られ、その律法の精神は、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することでした(マタイ22:36-39)

ナルニヤ物語では、戦いの時に「ナルニヤのために、アスランのために!」と言って立ち上がるシーンが良くあります。それは、律法の心でしょう。私たちも迷ったとき、この確信に立ち返って、むなしいものではなく、主のために自分の命を賭けていきたいのです。

ピリピ1:21

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

2012.7.29(文月) NO.373 

2012年7月22日 (日)

あなたの重荷は、イエス様がになう

主のくびきを負う 使徒15:6-22

激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって異邦人が救われたことを証ししました。ローマの百人隊長であったコルネリオの回心が、彼の心にあったことでしょう。神さまは公平な方で人を偏り見ることなく、すべての人の救いを願っておられる(1テモテ2:4)ことと、異邦人に対して自分たちの先祖でも負えきれなかったくびきを負わせようとしていることを、非難したのです。

続いて、パウロとバルナバも、神さまが異邦人たちに対してしてくださったことを訴えました。集まった人々は、彼らの話をじっと聞き入った事でしょう。

ここに至って、主イエスの弟であるヤコブが、旧約聖書を引用して語りました。16-18は、イザヤやエレミヤ、アモスといった預言者たちの言葉です。それは、かつてイスラエルの民は神を礼拝するために天幕や神殿を作りましたが、それらは破壊されてしまった。しかしそれが「教会」と呼ばれる共同体によって新しくされ、異邦人も救いに導かれる、これは、神さまが以前から願っておられたことである、という主張です。異邦人も救われるという事にと惑っているユダヤ人に対し、このようなことこそがあなた方の信じている神さまのみ旨である、だからこれを受け入れなさい、と言っているのです。

そしてヤコブは、4つの具体的なことを提案しました。第一は、偶像に供えた物を避けることです。もともと真の神さまの前に、偶像といった神はないのですから、これは良心の問題として取り上げるべきで、他の人のつまずきにならない行動を取ればいいということは、のちにパウロが語るところです(1コリント10:14-29)。また、第二の不品行を避けるとは、特に近親相姦を戒めている言葉と取ることができ、神の造られた結婚や家庭の秩序を守ることです。第三、第四の絞め殺された物と血を避けるということは、食物に関する律法ですが、この時代においては血に象徴される命を尊び、虐殺を避けることを語っています。これらの律法は、レビ記1718などに詳しく語られています。

このようなことは、誰にでも当てはまる原則的なことですから、異邦人もこれらのことを守り、ユダヤ人キリスト者もそれ以上のことを負わせて彼らを苦しめてはいけないというのが、ヤコブの主張でしょう。これは書簡にして、アンテオケ教会に届けられることとなりました。

キリスト者は、罪の奴隷から救われたものであり、再びそのくびきを負うことはないのです(ガラテヤ5:1)。主は、私たちの重荷を解き下ろし、イエス様のくびきを負って学ぶ新しい道を示されたのです。

マタイ11:28-30

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ますわたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

2012.7.22(文月) NO.372

2012年7月15日 (日)

喜ぶこと

共に喜ぶ 使徒15:15

どの世界でも、問題が起きるとその解決を図るために関係者が集まり、お互いに協議するということが起こると思います。使徒15章は、キリスト教会最初の教会会議と言える出来事が記されている、歴史的な箇所と言えるでしょう。

ユダヤ人だけでなく、異邦人も救われ、キリスト者の交わりが地中海世界のいろいろな地域に生まれてきました。パウロとバルナバによる伝道の旅が祝福され、アンテオケではその報告が喜びを持ってなされていました。そんなときに、ヤコブの元からと思われるユダヤ人(ガラテヤ2:12)がアンテオケにやってきて、異邦人であってもユダヤ人のように律法を守り、割礼を受けなくては救われないと教えたのです。これは、パウロたちが教えてきたこととは異なる教えであり、お互いの対立の火種となり、少なからぬ論争が起きたのです。このことの解決のために、パウロとバルナバはエルサレム教会に行くこととなり、白熱した議論が交わされることとなります。その結果については15:2229に記されているように、お互いに受け入れられるものとなりました。

ここで起こった問題は、この当時の世界における哲学的問題としては「特殊」と「普遍」にかかわることであり、キリスト教においては、「律法」と「福音」の理解の問題でした。ユダヤ人という特殊な人種だけでなく、異邦人と呼ばれるすべての人が救われると言うこと、また、立法を行うことによって救われるのではなく、イエスキリストを信じる信仰によって救われることこそが福音であるということです。それは、キリスト教2000年の歴史の中で、絶えず問われてきたテーマでもあったのです。

このような問題の解決のために、お互いが集まったと言うことは、評価されるべきです。意見が違うために、話し合うこともしない、会うこともないというのでは、解決に向かって一歩も進めることができません。また、問題の解決のために、そもそも律法とは何か、福音とは何かと言うことを改めて確認したことも、評価されます。

律法の中心は、イエス様がおっしゃったように、神さまを愛し、自分と同じように隣人を愛することです(マタイ22:3639)。又割礼は外面的な儀式ですが、大切なのは心に割礼を受けることです(エレミヤ4:4、ガラテヤ5:6)。何よりも、一人の人が悔い改め救われることは、大きな喜びであり共に喜ぶことをイエス様は教えられました(ルカ15:69)

意見の違いから大きな対立が起きるのは、お互いが喜ぶことを忘れたからです。神さまのしてくださったみわざを共に喜ぶことができれば、小さな違いを超えた大きな祝福をいただくことができるでしょう。

ローマ12:15

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

2012.7.15(文月) NO.371 

2012年7月10日 (火)

母校へ~東京理科大学

久しぶりに、母校である理科大を訪れました。ELCのクラスに入会されたTさんが、同じ大学の先輩であることがわかり、今年の春桜の木を植樹したと伺ったからです。確かに、野田線のガードをくぐって上がった右側に植えられていました。「記念植樹、しだれ桜、2012年3月、森本研OB会」とありました。

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ちょっと足を伸ばして、部活の時に走ったルートを見てきました。新し校舎ができ、家も増えていましたが、運河に出る曲がり角にあった竹藪は、まだそのままでした。之はちょっと、うれしかったですね。曲がったところには、高齢者の介護施設ができており、運河沿いの道は今も利根川と江戸川へと伸びておりました。

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帰りは、記念樹の見える食堂でハンバーグランチを食べました。ガストが入っているんですね。自分の時代と違い、女子学生が多くなり、男子学生もちゃんとした(?)服装をしていることに、時の流れを感じました。この学園で、み言葉の証しのお手伝いができるようお祈りし、帰路に就きました。

2012年7月 3日 (火)

一椀のお茶から、慰めを

チャリティー茶会のお仲間で、毎月被災地支援のために奉仕してくださっている方がおられます。大日本茶道学会の平野麗樵さんです。

相馬市の仮設住宅でお茶会をされ、その様子がクラッシュジャパンのページに掲載されました。一椀のお茶、一服のお茶が、大きな慰めになっていることを知りました。

梅雨の合間の、すがすがしい便りをいただき、うれしく感じました。

2012年7月 1日 (日)

アブラハムの信仰に倣う

神は、アブラハムにすばらしい約束を与えてくださいました。ところが、その約束を神が果たすことがでるようにするのに一番いい方法はなんだろうかとアブラハムは考え、人間の常識に従って最も賢明と思われることをしました。けれども、13年間、神は彼に語りかけてさえくださいませんでした。そしてとうとう自分の知恵に頼るだけではどうすることもできないところまで、来てしまいました。そのとき、神が現れ、言われたのです。「わたしは全能の神(エルシャダイ)である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」(創世記17:1)。

繰り返し、繰り返し神は私たちに、しっかりと、根気よく立つことを教えてくださいます。私たちは、新鮮な驚きをもち、いつでも活動できるように目を覚ましていなくてはならないのです。

祈りに答えて神がどのように働いてくださるかは、論理を遙かに超えた神秘です。しかし祈りに答えて神が働いてくださるということ自体は、これはまことに輝かしい真理です。(祈りの時を変える黙想 O・チェンバース)

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