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2012年10月

2012年10月29日 (月)

チャリティー茶会

10月27日の土曜日、今年も、丘の上でチャリティー茶会が開かれました。15回目のお茶会でしたが、席を持って下さったのは、裏千家の藤井宗輪先生がホールにて立礼席(りゅうれいせき)、江戸千家渭白流の香田静寛先生が小間にてお濃い茶席、教会茶道部は表千家、髙橋敏夫先生が復活の庭にて薄茶席。そしてクリスチャン陶器師の椿巌三先生が広間にてお濃い茶席を初めて持って下さり、新しい風が吹いたように思います。

私たちの席は野外の席ですから天候が気になるところ。この日は、ちょうど良い気温で、時折雲の間から日差しが差し込む野点日和となりました。さすがに夕方になると風が出てきて、肌寒さを覚えたのですが、予定の10席を持つことができ、184名の方が席に入って下さいました。髙橋牧師の、茶の湯は趣味を越えた人生そのものであることを、ユーモアを交えて語って下さいました。

他の席の様子は、来てくださった方々お話しによると、それぞれに趣向が凝らされた素敵な席であったということです。また講演の、裂地と表具のお話しは大変興味深かったこと、会堂のオルガンとソプラノの独唱は出演者のドレスが大変素敵なもので、演奏を十分楽しめた、とのことでした。

これらのこととが一つなり、この会の進行のために奉仕してくださった方々に支えられて、名残の茶会を無事に終えることができ、感謝しております。

それにしても、9:30~午後4時まで、ずっと座っていることが多かったのですが、足のしびれはありませんでした。芝生の上は、柔らかなのですね。神さまの造られた世界は、元々優しい世界だったのだと思います。

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2012年10月27日 (土)

実は、積極的な生き方なのです。

神のみこころなら 使徒18:12-23

伝道をともにするする信徒や同労者が与えられ、イエス様に勇気づけられたコリントでの働きによって、救われる人たちが起こされ,教会が建てあげられるほどになりました。しかしここでもまた、ユダヤ人から妨害を受けました。彼らは,パウロが律法に背いて神を拝むことを教えていると、当時の地方総督ガリオに訴えたのです。この世の権威に訴えて,パウロの働きを止めさせようという,魂胆だったのでしょう。

ガリオは哲学者セネカの兄で、法廷は町の中心にありました。現在は,石田畳の階段が遺跡として残っているそうです。彼の裁定は、一言で言えば門前払いです。ユダヤ人の訴えていることは自分たちの宗教に関わることであり、ローマ法に照らして裁きをすることではない,という判断をしたわけです。この裁定は,結果としてパウロの伝道を容認するものであり、幻の中で主が語られた「だれもあなたを襲って危害を加える者はいない」ということばが、このような形で実現したと言えます。ユダヤ人はこのことの腹いせでしょうか、会堂管理者ソステネを捕らえて打ちたたくことしかできませんでした。結果として、ネロ帝によるキリスト教との迫害の時代まで約12年間、ローマ帝国内においてはキリスト信仰が容認されることとなったのです。

聖書には、この世の権威の象徴として、いろいろな人物を登場させています。イエスの誕生時の王は、ヘロデでした(マタイ2:1)。この世は,イエスの誕生を喜ばなかったことを暗示しています。またイエス様は、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と言われ、この世でのキリスト者の行動基準を示されました(マタイ22:21)。そして、イエスを裁いた時の王はピラトであり、正しいことを知っていても保身のためにイエスを十字架につけることを許した人物として描いています(マタイ27:24)

私たちも、この時代に生きている者として、現在の政治、経済、教育などの様々な影響を受けます。「クリスチャンは中立でありなさい」と言われても、それは無理なことです。そのような中で生きる指針は、神の御心を第一とすることです。パウロは、ケンクレアでは何かの誓願を立てていたので、その成就のしるしとして髪を剃りました。之までの伝道の感謝とともに、新しいことへの決意表明でもあったと思います。エルサレム着いたとき、剃った髪を祭壇で焼き、感謝の捧げものをしたのでしょう。

また、エペソでは、あれほど尋ねたかった町であるにもかかわらず、人々の長くとどまって欲しいとの願いを退け、彼らに別れを告げました。しかしその時「神のみこころなら、また、あなた方の所に帰ってきます」と言ったのです。後に、彼のこのことばは現実のものとなり、パウロの伝道旅行で最も激しく偶像と対決した事件が起きるのです。この時の短い滞在は、後の伝道への備えとなったのだと思います。パウロの行動には、すべて意味があったからです。

神のみこころなら、それが最善の事柄となるのです。あらためて、今年度のみ言葉を覚え、お互いの生活の中に神の御心を求めてまいりましょう。

「神の国とその義をまず第一に求めなさい」マタイ6:30

2012.10.28(神無月) NO.381

2012年10月21日 (日)

ともにいる

弱さの中でも 使徒18:1-11

エペソからコリントに渡ったパウロは、恐れおののいていました。今日では聖人と呼ばれ、すばらしい働きをしたパウロでしたが、私たちと同じような弱さがあったことを、正直に告白しているのです(1コリント2:3)

しかしこのようなパウロは勇気づけられ、励まされて1年半コリントに腰を据えて伝道できたのです。その秘訣は「ともにいる」というキーワードにあると思います。

パウロが初めてコリントで出会ったキリスト者は、アクラとプリスキラというユダヤ人夫婦でした。彼らは天幕作りの職人で、後に初代教会においてパウロたちの伝道を支える大切な信徒となります。パウロも同業者であったので、彼らとともに仕事をして生活の糧を得、その一方で会堂に入ってユダヤ人に福音を宣べ伝えました。信徒が心を合わせてともにいてくれることは、力となりました。

そのうちに、シラスとテモテがやってきました。彼らは諸教会からの献金を持ってきたので、パウロはみ言葉を伝えることに専念できるようになりました。そのために、ユダヤ人からは暴言を受けましたが、会堂を出て異邦人に福音を伝える契機ともなりました。しかし移った先が会堂の隣の敬虔な信者の家であり、会堂管理者も回心するというすばらしいことが起きたのです。同労者の存在は、彼の伝道の働きを大いに助けたのでした。

このような成果を上げたパウロでしたが、その心の内には恐れがあり、弱さを感じていました。そのパウロに、主は幻の中であらわれ言葉を掛けられるのです。「恐れるな、わたしはあなたとともにいる!」主がともにいてくださること、之が私たちにとって、究極の慰めであり励ましです。

私たちが弱さや恐れを感じるのは、ひとりぼっちであるとき、孤独であるときでしょう。究極的な孤独は、人が死に臨んだときです。文字通り誰も自分の周りにいない状況、あるいは、家族がそこにいてももはや何の交流もできない状況は、私たちにとって一人ぼっちである寂しさの極みでしょう。しかし、その時に、主がともにいてくださることを知るのです。あなたが独りになったと感じるとき、そこに主がいてくださることを知るのです。

5節の「専念する」ということばは、苦しむ、ひしめき合うという意味を持っています。そしてこのことばは、弱さの中にキリストの姿を現すことばとしてパウロが用いているのです。それはキリストの愛が私たちを「取り囲んでいる、押し迫っている」ということです。弱さの中にある私たちを力づけるのは、あなたに迫っている主の愛に他ならないのです。

弱さを感じたパウロを力づけたのは、彼を助ける信徒や同労者がともにいてくれたこと、なによりも主がともにいてくださったことでした。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。2コリント5:14

2012.10.21(神無月) NO.380

2012年10月18日 (木)

返事をしない牧師さん

本日(10月18日)、浦和の教会で、合同の秋の婦人修養会がもたれました。会場に遅れて着いてしまったのですが、元婦人会役員の二人の姉妹が、純白のドレスに身を包み、楽しく賛美をしておられました。礼拝堂に素敵な花が咲いたような感じで、また、之まで見たことの無いお二人の姿に、心の中では「ブラボー!」と拍手をしておりました。

講師のM先生のお話は、ゆっくりとそして丁寧に聖書から語ってくださいました。「不正の富で富を得よ?」というおもしろいタイトルで、神様から与えられた賜物を生かしていくことを、あらためて教えられました。

集会の最後に、司会者が牧師先生を紹介したい、ということでひとりひとりの名前を呼ばれました。呼ばれるたびに、会場内にいる牧師が立って会釈をするのですが、誰ひとりとして「はい!」などと返事をする人はありませんでした。町の集いやイベントのときに来賓が紹介されると、ほとんどの方は返事をし、一言挨拶をされます。コンニチハくらいは、言っていいのではないでしょうか?妙な、違和感を覚え、自分の名前が呼ばれたときは小学生のように、「ハイ、こんにちは」と立って挨拶をいたしました。やっぱり、名前を呼ばれたら、返事をした方がいいですよね。いかがでしょうか?

夜、この話題を家内にしたところ「家では、私が呼んでもあなたはあまり返事をしないじゃないの」の一言。「家の中では疲れているからいいんだよ、ハイ」ということで、ひとりお風呂に入りました。やっぱり疲れていると、返事も出ないのかな?

聖歌634折返し

その時わが名も その時わが名も

その時わが名も 呼ばれなば必ずあらん

2012年10月14日 (日)

復活はつまずき?

復活がなければ 1コリント15:12-20

本日の説教は、916日の内容と同じものです。そのときに引用した、復活をめぐる二人の方のことばを、記すことにします。

三浦光世氏

キリストの十字架の購いによって私たち人間は罪が赦され、身体がよみがえり、永遠のいのちまで約束されている。何とありがたいことであろう。あまりにもうますぎるほどのめぐみであるが、神はこのように備えて下さっているのであるから、私たちは率直に、かつ、徹底的に之を信じていかねばならないと思う。

(「復活とは」P.32

春山勝美神父(1936.6.102007.11.30)

「ここは、復活聖堂である。復活がなければ、こんなところで奉仕はしない。復活とは、キリストが生きていることである。」

(NHK探訪ロマン、2006.9.23放映、聖墳墓教会にて)

2012.10.14(神無月) NO.379 

2012年10月 3日 (水)

チャリティー茶会

今年も、丘の上でチャリティー茶会が行われます。私は、野点席で奉仕させていただきます。名残の茶席を、ゆっくりとお楽しみください。

お茶券を販売中です。お声がけくださいますように。

ご案内→「15th_charity_chakai.pdf」をダウンロード

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