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2012年11月

2012年11月25日 (日)

隠された罪の告白

罪の淵からの回心 使徒19:8-22

再び訪れたエペソで、パウロは足かけ3年ほどとどまり、神の国の福音を宣べ伝えました。心をかたくなにして、彼の教えを聞かない人があっても、ツラノの講堂に出向いて人々と論じ、イエスのことを語り続けたのでした。

そのパウロが身につけている手ぬぐいや前掛けを病人に当てると、病気は治り悪霊は出て行くという奇跡が起こりました。これは、彼の語っていることが真の神の教えであることを示す、しるしとしての奇跡だったのです。13節以降に書かれているような魔術的なものではありませんでした。

このようなことをみれば、自分もやってみたいと思う人が現れるのは、昔も今も変わりません。ユダヤの祭司スケワという人の7人の息子たちがパウロのまねをして、イエスの名を使って悪霊を追い出そうとしたのです。ところが、彼らはかえって押さえつけられ、打ち負かされてしまったのです。主の御名をみだりに唱えることを禁じられている十戒を思い起こさせる出来事です(出エ20:7)。私たちもイエス様の名前によってお祈りをしたり、事を決めるとき、本当にイエス様により頼んでいるでしょうか?

この出来事は、周りの人たちに自分たちのしていることをさらけ出して、告白するという事を引き起こしました。魔術や占いに関する書物(パピルスや羊皮紙に書かれたもの)を持ってきて、それらを焼いてしまったのです。その値段の合計は銀貨5万枚というのですから、いかに多くの人たちがこれらのことの虜になっていたかがわかります。悪霊は、人を恐怖に陥れます(ローマ8:15)。今日占いなどはゲームやカウンセリングのように扱われていますが、霊的な世界のものであることに注意しなくてはいけません、

このような出来事の今日的なポイントは、「自分たちのしていることをさらけ出して告白した」ということです。隠されている罪が明らかにされ、神様の前に告白し、赦しをいただくことです。必ずしも、偶像礼拝だけではありません。人知れずにおかしている不品行、ねたみ、盗みなどがあなたの心を苦しませ、平安を奪い取っているのです。詩篇の作者もこのことを歌っています。

詩篇32:1-5  幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

アメージングレイスの作者ジョンニュートンは、奴隷商人として最初の嵐に遭ったとき、イエスを信じました。しかし船長になった直後、大きな病を経験して、真の回心を経験し、奴隷船からおりたのです。イエスを信じその罪を赦されることは、新しい人へと造り変えてくださる神様の奇跡なのです。

1ヨハネ1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

2012.11.25(霜月) NO.385 

2012年11月24日 (土)

主よ、みもとに

本日(11月24日)、教会員であり青年時代に知り合ったKさんのお母様のお通夜が行われ、参列させていただきました。今月誕生日を迎え、満83歳になられたばかりでしたが、約1ヶ月の入院、闘病の末、先週の木曜日に静かに息を引き取られたということでした。

Kさんの家は岩槻にあり、新潟から出てきた私は、よく彼の家に出入りさせてもらいました。たいへんオープンなお母様で、飾ることがなく、最初から私を快く(たぶん)迎えて下さいました。冷蔵庫にあるものも勝手にとっていいと言うことで、彼に嫁いだR子さんより、私の方が家の様子をよく知っていたほどでした。年末年始に帰省しなくなった私を泊まらせて下さり、お母様手作りの料理をいただき、お父様と新年の挨拶を交わして元旦礼拝に集ったことは、懐かしい思い出となりました。良くしていただいた方がいなくなるのは、本当に淋しいことです。

先々週は、親しく交わりを持たせていただいた信仰の大先輩が召されました。ひとりは、伝道者のW先生。仏教に造詣が深く、イエスキリストの十字架の福音を大胆に語って下さいました。もうひとりは、作曲家のT先生。新聖歌にある、「キリストの愛我に迫れり」の作品が有名です。私たちの教会にとっては、メサイヤ合唱団、聖歌隊の指導だけでなく、「平和の祈り」「四季の恵み」の作詞者として、長くて深いお交わりを持たせていただいた先生です。訃報を知らされ、思わず涙が出てしまいました。ひとり静かに、主にだけ看取られて、天に召されたのではないでしょうか。

今年もあと一月あまり、丘の上の木々もおおかた葉を落とし、静かに冬を迎えています。深い眠りに入るようです。私たちも、やがて天に召される日がやってきます。じたばたせずに、その日を待ち望むことができたら、いいなと思わされた土曜日の夜でした。

主よみもとに近づかん 上る道は十字架に

ありともなど 悲しむべき 主よみもとに近づかん

2012年11月18日 (日)

もったいない

イエスの真の弟子 使徒19:1-7

エペソで伝道していたアポロは、プリスキラ、アクラ夫妻に導かれてイエス様について正しい理解を持つようになり、コリントに向かっていきました。そのあとエペソの町を再び訪れたのが、パウロでした。アンテオケから奥地を通ってやってきたのです。

ここで彼は、幾人かの弟子たちと逢いました。具体的に誰の弟子であったのかは不明でしたが、イエス様を信じていたようです。しかしパウロとのやりとりを通して、彼らはイエスを信じる者は聖霊を受けるということを聞かされていませんでした。そのようなことを、知らなかったのです。そこでイエスの御名によってバプテスマを受け、パウロが手を置いて祈ると彼らは異言を語ったり預言をしたりしました。このことは、彼らが聖霊を受けたことを表す、特別なできことでした。

イエス様の十字架と復活、そして、使徒2章にある聖霊降臨を知っている私たちから見ると、この12人は弟子とは言え、イエスの真の弟子であるとは言えないのではないかと思ってしまいます。イエスを信じる者はすばらしい祝福をいただくことができるのに、それを十分に味わっていない、神様の恵みを100%いだいておらずもったいないことをしている、と感じるようなものです。

イエスを信じる者は、新しく生まれた者です。聖霊が風にたとえられ、父なる神様の御心のままに、人は聖霊によって新しく生まれることができるのです。おもしろいことに、禅の大家であられた鈴木大拙氏は日本人の霊性から見て「二度生まれなければ人間ではない」と語っておられます。まさにその通りであり、それを実現させてくださるのが、聖霊なのです。

ヨハネ3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

聖霊は、その人の信仰に応じて賜物を与えてくださいます。之は神様からのギフトです。必ずしも、他の人よりも勝っている技能であるということではありません。賜物はバラエティーに富んでおり、キリストのからだなる教会を建て上げるために用いられる、その人独自の物が必ずあるのです。

1コリント12:4  4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。

この神の御霊に満たされた人は、生活の中で実を結ぶことができます。キリスト者の霊性が表される、といってもいいでしょう。

ガラテヤ5:2223 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

イエスを信じる者は、この聖霊を受けて聖霊の宮とされているのであり、イエスの真の弟子として、聖霊によって歩む生涯を送ることができるのです。

ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

2012.11.18(霜月) NO.384 

春日部福音自由教会 山田豊

2012年11月17日 (土)

寒さ対策に、心強い味方が!

桜やケヤキ、そしてツタの色づいた葉が木枯らしに吹かれて、足下をさらさらと駆け抜けていく季節となりました。寒さ対策が、必要な時期ですね。

そんな今、身体だけでなく、心も暖めてくれる心強い見方があります。先代の大先生からお世話になっている、坂路接骨・鍼灸院です。ゆい通信では、深い知識に基づいた健康のお話しが毎月掲載され、今月号は身体を優しく暖める方法も紹介されています。

リンクを張らせていただきましたので、左のMy favoriteからお入り下さい。寒さに負けないで、深まる秋と冬を乗り越えましょう。グッドラック!

2012年11月12日 (月)

丘の上で、一足早いクリスマスコンサート

今年も、丘の上で一足早いクリスマスコンサートを行います。

日本人が初めて西洋音楽に触れたのは、宣教師が日本に初めて来たときだったでしょう。果たして、どんな音楽が流れたのでしょうか?

パイプオルガンとフルートで当時の音楽の再現に挑戦、講演もその当時をしのぶキリシタンのお話です。チケットをお求めの上、是非ご参加下さい。

12月1日(土)午後1:30より、丘の上記念会堂

チラシはこちらから→「hitoahsi.pdf」をダウンロード

2012年11月11日 (日)

世界中の子どもたちが

今年の秋は、各会堂で、特別礼拝が行われました。

丘の上では、ヒルトップリンガーズの賛美があり、クリスマスの賛美歌と「世界中の子どもたちが」を演奏してくれました。やはり、子どもたちの笑顔は、大きな喜びと、平和をもたらしてくれますね。

2曲の演奏を聴きたい方は、こちらからどうぞ。

人生への新しい扉~イエスの招き

新しい人生への扉 ルカ19:1-10

本日の聖書箇所に出てくるザアカイという人は、都エルサレムに近いエリコという歴史のある町に住んでおり、取税人の頭で金持ちでした。税務署の署長さんというところでしょうか。しかしその財産は不正をして得た物であったらしく、彼を罪人呼ばわりする人がいるほど、周りからの評判は良くなかったようです。イエス様が来るのを知ってそのお姿を見ようとしたのですが、「背が低かった」ので見ることができなかったとわざわざ容姿のことが書いてあります。之は彼のコンプレックスを示唆しているようにも思われます。しかしイチジク桑の木に登ることができたので、運動神経は良かったようですね。人は誰でも、得て不得手があるものです。

そんなザアカイにイエス様が声を掛けられ、彼のところ行って客となられました。おそらく、ザアカイは精一杯イエス様を迎え、食事のもてなしをしたのでしょう。そしてイエス様との交わりを通して神様のことばを聞き、自分の不正を告白してそれをわび、他の人のために施しをする人間へと変えられました。イエスを迎えることによって、ザアカイの新しい人生への扉が開かれたのです。

この物語がおもしろいのは、ここで主客が入れ替わっていることです。すなわち、客として招かれたイエス様が主人となり、ザアカイが客となってイエス様にもてなされているのです。すなわち、主イエスは彼を神様の子どもとしてお救いになり、天国への道を開いて下さったということなのです。立派な地位もあり財産もある、歴史の町に住んでいて人生を横臥しているように見えたザアカイは、誰も尋ねてくれる人のいない孤独な人であり、不正を働いた財産で生きている負い目のあることを、彼自身が一番よく知っていたからです。

しかし自分の家の扉を開き、イエスを迎えたところから、彼の人生は変わったのです。

19世紀の画家ウイリアム・ハントによって描かれた「世の光」という作品があります。ツタや茨で覆われた扉をノックしているイエスは、左手に明かりを持っています。中の人を明るく照らしてあげようとしています。しかしこの扉の外には取っ手がありません。扉を開けることができるのは中の人、すなわち私たちなのです。イエスは無理に人の心に入ろうとはなさいません。しかしその扉を開ける人には、イエス様がお入りになって私たちの新し主人となり、天国まで続く愛と希望に満ちた生涯を導いて下さるのです。

今朝イエス様が尋ねて下さっている声に、お応えしようではありませんか。

黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

2012.11.11(霜月) NO.383 

2012年11月 5日 (月)

そうだ、京都に行こう!

髙橋牧師の伝道旅行に、行こうか行くまいかと迷っているとき、友人の牧師から「京都においでやす」とのメールがあり、「そうだ、京都に行こう!」と一大決心、2日と3日の1泊二日の京都旅行となり、彼の教会に泊めていただきました。

2日の夜は、京都市祇園の南側にある串焼きのお店竹茂さんで、楽しい夕食。教会員の甥御さんがお店を開いておられ、政財界の方も来られる評判のお店です。吟味された一つ一つの素材をおいしく味わい、楽しい夕食となりました。夜は、くだんの友人宅近くの銭湯に連れて行っていただき、ゆっくり休むことができました。

3日は「文化の日」にふさわしく、日本文化を実体験するツアー。髙橋牧師の案内で、午前中は大山崎にあるお寺妙喜庵を見学。利休作と言われる国宝の待庵をじっくりと見させていただきました。2畳、そして1畳半まで切り詰めた利休の思いを少しでも感じることができた(かな?)と思います。

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そのあとは京都市内に戻って、まずは骨董屋の柳さんで、細川護煕展の見学。一同で写真を撮らせていただき、おいしいお茶とお菓子をいただきました。

昼食は精進・会席料理の泉仙で、いただき、いよいよ本日のハイライトである大徳寺塔頭の一つ、瑞峯院に伺いました。前田唱道老師の法話のあとは、しばし黙想の時。約20分間の座禅でしたが、心落ち着く時となりました。もっとも、参加者のHさんは明日のことが気になって1時間にも感じられたと、修行の足らないことを告白していましたが・・・。このお寺は、キリシタン大名であった大友宗麟の菩提寺です。その庭には、十字架に石を配した庭があります。裏庭には、宗麟夫妻のお墓が歴代住職のお墓と並んで、立てられておりました。苔むした墓石を見ながら、洗礼名をザビエルとつけた宗麟の信仰を思い巡らして、瑞峯院をあとにしました。

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教会の茶道友の会、京都の牧師先生方との一時の旅行は、「行って良かった!」と感謝な時となりました。

2012年11月 4日 (日)

目を留めるものは

成長させてくださる神 使徒18:22-28

再びアンテオケより出発し、パウロの第3回伝道旅行が始まりました。2223節という短いことばですが、キリキヤの狭門を通りタウロス山脈を越えて西に向かう旅は、交通機関の発達した現代から見れば、いかに大変な道であったか容易に想像がつくでしょう。福音を宣べ伝えキリストの教会を建て上げることが神様から与えられた使命であるとの思いが、パウロを前へ前へと駆り立てたのではないでしょうか。

3回伝道旅行の主たる舞台はエペソになるのですが、そこにアレキサンドリア生まれのアポロという人が現れました。彼は雄弁な人で聖書に通じており、霊に燃えて(直訳:沸騰して)イエスのことを正確に宣べ伝えていました。アレキサンドリアはエジプトの北岸にある年で、大学や図書館があり、旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳聖書が作られたところです。彼は、キリストに関する預言を旧約聖書から知っており、処女マリヤから生まれたのがイエスであるから、この方こそ人類が待ち望んでいた救い主であると語ったのではないでしょうか。

しかし彼は、バプテスマのヨハネしか知りませんでした。十分な福音の知識がなかったのです。そこで、プリスキラとアクラ夫妻は彼を個人的に招き入れて、イエスの十字架の購い、復活、昇天、再臨、そしてかつて五旬節の日に聖霊が下りイエスを信じる者は聖霊に満たされることを教えたことでしょう。この後、アポロは聖霊による熱心をもってイエスのことを宣べ伝え(ローマ12:11)、コリントにも足を伸ばし、そこで大きな働きをすることとなります。

教会は、基本的にはイエスを信じる者の集まりで、建物や組織ではありません(マタイ18:20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。)。しかし人間の集まりであるので、大きな働きをした人をしたっていつの間にか分派や対立が起こるものです。実際コリントでもそのようなことがおこり、教会の中ではパウロ派、アポロ派、はてはキリスト派ができるような有様でした。

このような中で、確かに木を植えたり水を注ぐ人は必要であるが、成長させてくださるのは神様であるとパウロは語りました(1コリント3:5-7私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。)。実際、このようなことを知ったアポロは、請われても再びコリントに行くことはなく、自分から身を引いていったのです。自らをわきまえ、ただ神様を見上げるようにとのメッセージが、彼の態度に表れています。

私たちの人生、教会生活の中で、人を生かして成長させて下さる方を忘れてはならないのです。

1コリント3:2223

「パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」

2012.11.4(霜月) NO.382 

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