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2013年2月 3日 (日)

死ぬことも益なり

カイザリヤの海辺 使徒21:1-16

ミレトで別れを告げたパウロは、エルサレムに向けて再び出発しました。コス、ロドスに寄港し、パタラにわたりました。ここはルキヤ地方の大切な港で、サンタクロースと呼ばれるようになる聖サンタニコラオスが生まれた町でもあるそうです。

そこからフェニキア行きの大きな帆船に乗り換え、キプロス島を左に見ながら南東へと航海を続け、ツロに上陸しました。五旬節までにはエルサレムに着きたいと旅路を急いでいましたが、弟子たちを見つけ出して7日間滞在することとなりました。順調な船旅で、余裕ができたのかもしれませんね。この地にいるキリスト者は、迫害によって散らされた人たちやその子孫であったと思われます(使徒8:1)。そうだとすれば、かつて迫害者であったパウロとの交わりは、どの様なものであったでしょうか。ここの弟子たちはパウロがエルサレムに上らないようしきりに願ったというのですから、本当に親しい交わりになったのでしょう。

ツロ出てトレマイを経由して、カイザリヤに着きました。執事であったピリポは伝道者と呼ばれ、彼の娘たちは預言の賜物を与えられて、神に仕えていました。そこに、かつてエルサレムが世界的な飢饉に巻き込まれると預言したアガポがやってきて、パウロの受ける苦しみを自らの手足を縛って預言しました。これを聞いて人々は、エルサレムに上らないよう頼みました。パウロはいたく心が動揺したでしょうが、「主イエスの御名の為なら、死ぬことさえ覚悟している」と告げたのでした。人々は、主の御心のままにとしか言う他ありませんでした。

パウロのこの姿勢は、主イエス様が持っておられた姿です。福音書には、エルサレムをめざすイエス様の姿が、毅然としたものであったことが描かれています。ご自分の受ける苦しみを弟子たちに話されたとき、ペテロはイエス様を脇に呼んで、いさめたのです。しかし主は言われました。

「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マルコ8:32

イエス様はペテロだけでなく、弟子たちをしかられたのでした。このときのイエス様の思いは、自らが十字架にかかって死ぬこと以外に、人々を救いに導くことはできない、苦しみを受けることこそが、父なる神さまの御心を行うことであると確信していたのです。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

カイザリヤの海辺から、パウロは何を見ていたのでしょうか。地上の都エルサレムで死ぬことは、豊かな実を結ぶことであり、そこから永遠の国へと出発していくことを、水平線の彼方にある地の果を見つめながら思っていたのではないでしょうか。やがてそこにパウロは、とらわれの身として行くことになるのです。

私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。ヘブル13:14

2013.2.3(如月) NO.394 

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