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2013年3月17日 (日)

どうしてもしなくてはいけないこと

神の召しに応える 使徒22:121      

ローマカトリック教会の新しい教皇フランシスコは、314日(木)午後5時からシスティーナ礼拝堂で、「教会のため」のミサをささげました。このときの説教には「イエスキリストを告白しなくてはなりません。福祉活動を行うNGOになるかもしれませんが、主の花嫁である教会にはなりません」とありました。私たちのしていること、祈りが、そして全てがイエスキリストに結びつけられていることの大切さは、全てのキリスト者に言えることです。

ダマスコ途上で回心したパウロは、その出来事を証しする弁明がこの箇所を含めて4回記されています。よく、ビフォーアフターといわれますが、回心前のパウロ、回心したとき、そして回心後のことが語られているのです。これは、私たちがどの様にイエスキリストを信じ救われたかを語る「証し」の手本となります。もちろん全ての信者がパウロのような劇的な回心の物語を持っているのではなく、一人一人に神様がしてくださった物語があります。しかし、パウロの語る弁明、証しは、私たちが証しを語る上で参考になると思います。

回心前のパウロは、熱心に律法守るユダヤ人で、パリサイ派に属していました。教会の迫害者でしたが、ダマスコに向かう途上でイエスの声を聞き、大いなる光に打たれて目が見えなくなりました。ダマスコでアナニヤという弟子と出会い、彼によって福音を聞いて回心し、バプテスマを受けました。その時彼の目からうろこのようなものが落ち(使徒9:18)、これが後に「目からうろこ」のことわざとなります。その後のパウロは、福音を伝える伝道者としての生涯を過ごし、苦難の中でも復活の証し人としてイエス様に仕えました。

パウロの生涯は、神様の召しに応える生涯でした。彼の回心は、同胞のユダヤ人だけでなく、異邦人にも福音を述べ伝えるためだったのです。

しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。使徒9:15

その召しに応えたので、今日のキリスト教会があると言えます。

神様は、私たちをこの世の始まる前から御心に留め、選んでくさいました。そしてイエスキリストを信じる信仰を与え、罪の中から救ってくださったのです。教会は、神様が召してくださった人たちの集まりです。教会を表すギリシャ語の「エクレシア」は、まさにそのような意味なのです。

千利休が自刃させられたあと、その子少庵は、会津で蒲生氏郷の庇護の元に置かれました。その数年後、秀吉の怒りが解けて京都に戻ることを許す書状が届けられます。氏郷と家康による連著の「少庵召し出し状」と言われるものです。彼がこれに応えなかったなら、今日の茶の湯はなかったでしょう。同じように、神様の召しに応えることがなければ、イエスキリストの流された尊い血潮による救いは、そこで途絶えてしまうのです。この地上での生涯の間、そして死ぬときですら、神様の召しに応えていくことが、一人一人に与えられた神様からの使命なのです。

エペソ4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

2013.3.17(弥生) 399 

春日部福音自由教会 山田豊

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