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2013年4月

2013年4月28日 (日)

自分の務めに熱心ですか?

あわれみによる務め 2コリント4:17

昨今の就職活動は、ずいぶん厳しいものがあります。働く意欲や能力があっても、自分に合ったやりがいのある仕事に就くことは、難しいようです。

回心したパウロは、その生涯を福音を宣べ伝えることに献げました。イエスキリストを証しすることが、自分の務めであると確信したからです。しかしそれは、自分がそのような務めに最初からふさわしかったからではありませんでした。むしろ、昔からの律法を守ることに熱心で教会を迫害する者でした。回心したばかりの頃は、教会の人たちから恐れと疑いの目で見られたことでした。

そのような人物が宣教の務めを果たすようになるのは、神様のあわれみによる以外ありませんでした。ですから、福音を伝えることは、借金をどうしても返さなくてはいけないように、自分のなさなくてはならない務めであるとこれに励んだのでした。

パウロはその務めを果たすために、勇気を失っていませんでした。また、恥ずべき事柄を捨てていました。そして、悪だくみに歩まず、神様の言葉を曲げずに伝え、真理を明らかにして自分自身を人々の良心に推薦しました。これらはすべて、神様のあわれみよることであったというのです。

しかし自分の務めに熱心であっても、福音を聞く人たちが全てパウロの語る言葉に耳を傾け、イエス様を信じたわけではありませんでした。まるでその人に覆いが掛けられているように、サタンがその邪魔をしているのです。確かに、福音を伝える側に問題があって、信仰に導くことができなかったり、相手をつまずかせてしまうようなことになることもあります。言い訳ではなく、福音を聞いた人の側にそれを拒むことがあるということなのです。私たちは、そのような人たちの心が開かれて、福音を真摯に聞いて救われることを祈るしかありません。

それにしても、この務めの中心は、イエスキリストです。それは福音であり、この世にある全てのものにまさる宝物です。それを入れているのは、立派な宝石箱ではなく、もろくて壊れやすい土の器である私たちなのです。ここにも、神様のあわれみがあります。もろい者であるからこそ、神様はこれを用い、イエスキリストというかけがえのない宝が輝くようにしてくださるのです。

福音を伝える努めに預かる人たちが、今、求められています。フルタイムの献身者として、牧師や宣教師になる人が必要です。また、教会を通して地域に貢献する人が必要です。いわゆる、教会献身者です。そして、自分の学業や仕事を通してイエスキリストを証しする人です。主婦や社会人であっても、その心にはいつもイエス様を証しする思いを持っている人のことです。

このような人たちの務めは、なかなかたいへんでしょう。しかし神様は、大きなあわれみを持って私たちをそのいずれかの務めにつけてくださっているのです。神様のこの務めをあなたは分かっているでしょうか。その務めを理解し、そしてその務めを果たしていくことが、お互いに求められているのです。

1コリント15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

2013.4.28(卯月) 中央 

春日部福音自由教会 山田豊

2013年4月27日 (土)

いよいよ来週です

来週は、春日部大凧マラソン。今年は、第15回目の節目ということで、気象予報士の平井さん、走る公務員ランナーの川内さんがゲスト選手として参加されます。昨年よりも、多くの人たちが応援に来てくれるでしょう。

私はようやく風邪も治り、平井さんのランニング教室に参加してきました。前回平井さんの本を読みましたよとお話ししたところ、著書にサインをくださると言うことで、ランニングの前にしっかりサインをいただいてきました。あわせて、同じ気象キャスターの井田寛子さんの本もご紹介いただき、感謝でした。特に、井田さんは豊春小、中の卒業生ということで、娘の先輩に当たり、テレビでしか存じ上げないのですが親近感がわいてきました。

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大人も子供も強風の中でたいへんでしたが、平井さんの指導でストレッチ、ランニング、そしてリレーをして、来週の本番に備えました。春日部FMクラブと教会の仲間とともに、楽しく走ってきたいと思います。

2013年4月21日 (日)

たとい弱さを感じても

イエスの道に従う 使徒24:121

先週は、ひどい風邪に悩まされ、お茶の稽古と祈り会をお休みし、チャペルのお話しもティム先生に代わっていただく始末でした。ドクターによれば「免疫力が落ちている」とのこと。身体に弱さを感じるとは、いろいろなウイルスへの抵抗力や免疫力が落ちていることをいうのだと実感しました。

カイザリヤに移送されたパウロは、ローマ総督ペリクスの法廷に引き出されました。エルサレムからやってきた大祭司アナニヤは、テルトロという弁護士にパウロについて訴えを任せました。彼はペリクスの歓心を買うようなことをまずのべ、主に3つのポイントを訴えたのでした。第1は、パウロはペストのような困った存在であること、第2は、ナザレ人という一派の首領であること、そして第3に彼は神殿を汚すことをした、ということです。

しかしこれらのことは全てでっち上げられたものであり、パウロはこれらを真っ向から否定します。それだけでなく、これらのことを証明できるものはいないと、断言したのです。神と人の前に、常に真実であった揺るぎないパウロの確信を表しています。

このような中で、パウロは自らを人々が異端と呼んでいるこの道に従っている、と明言しました。この当時は、まだ、キリスト者という呼び名があまり使われていなかったのでしょう。道という言葉は、柔道や茶道等という文化を持つ日本人にはかえってわかりやすい言葉です。ナザレ人という一派とは、具体的にどの様なものかはっきりしませんが、イエスのことを軽蔑的にナザレ人と呼ぶことがありました。パウロは、あえてこのようにいうことによって、人々から異なる教えであり、軽蔑されていわれている言葉を用いることによって、イエスに従うが故に苦しみを受けることもまた益であると、という信念をここに表しているのではないでしょうか。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。ピリピ1:21

またパウロは、自分が訴えられていることは、死人の復活ということであることも明らかにしました。全ての人がよみがえらされて、神様の前に裁きを受けなくてはならないことを、明らかにしました。これまでのパウロの主張に、何の変わりもありませんでした。

いろいろな困難が私たちを襲ってくるでしょう。どんなに免疫力が落ちても、イエスの道を進む力を、神様は与えてくださっていると信じていきたいですね。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。ローマ8:3337

2013.4.21(卯月) 403 

2013年4月14日 (日)

もう行き止まり?

道が開ける 使徒23:1225

本日の聖書箇所は、幕末から開国、明治に至る波乱に富んだ時代に起きたような出来事です。もっとも、このように感じるのは「八重の桜」の見過ぎでしょうか?

議会に引き出されたパウロは、死人の復活を大胆に証言いたしました。そのために、復活を信じているパリサイ派の議員と、そのようなことを信じないサドカイ派の議員との間に激しい論争が起こり、議会は大混乱になりました。彼の身を案じた千人隊長によって、パウロは兵舎に連れて行かれましたが、気落ちしていたことでしょう。復活の主が現れて、彼を励ましてくれましたが、果たしてどの様にしてローマへの道が開かれるか、まだ分かりませんでした。

この頃、パウロを暗殺する計画が立てられ、40名ほどのユダヤ人が堅い誓いをしてその手はずを整えました。このことを知ったパウロの姉妹の子(パウロの甥)が千人隊長にパウロを守ってくれるように頼み、彼は無事にカイザリヤに保護されることとなります。この甥の行動がユダヤ人に知られたら、パウロの身はもっと危険なこととになったでしょう。まことにスリリングな出来事です。このカイザリヤに脱出することによって、ローマ行きの道が大きく開かれていくのです。

私たちが苦しみや試練に遭ったとき、何とかして自力でそこから脱出しようとします。確かにそのように努めることは、大切なことです。しかしここでパウロが経験したことは、自分のあずかり知らぬところで、ローマへの道が開かれていく大切なことが起きていたということです。彼が道を開くというよりは、目に見えない方によって道が開かれていったのです。

このようなことをかつて詩人は歌いました。

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。詩篇121:12

皆さんもよくご存じの、み言葉だと思います。またパウロ自身も言いました。

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。1コリント10:13

成長したコリントの教会は、神様から祝福を受けていましたが、内にも中にも様々な問題があり、試みを受けていたのです。個人的なことだけでなく、教会という公の交わりにあっても、脱出の道が開かれていくことを信じていました。

行き止まりのように見えても、進んでいくと別の道があって、無事に目的地に着くことができたという経験を良くいたします。もちろんその逆もあるのですが、その時はまた戻ればいいのです。大切のは、あなたが進んでいくそのところで、目に見えることに惑わされるのではなく、主に信頼しているかどうかなのです。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。箴言3:56

2013.4.14(卯月) 402 

2013年4月12日 (金)

汚れを落とす

丘の上の掃除やメンテナンスには、その仕事に適した道具が必要です。特に、塀や壁などについた(こびりついている!)苔や汚れを落とすには、高圧洗浄機が必要です。以前、ご近所のHさんが業務用の機械を貸してくださったのですが、あまりにも威力が強すぎて、きれいにはなるのですが建物がダメージを受けてしまうこともありました。

そこで今回、思い切って家庭用の高圧洗浄機を購入しました。テレビなどでよく宣伝されている、アレです。

気になっていたイースターエッグを洗ってみました。結果は、以下の通り。抜群の威力を発揮しました。

左は、イースターエッグ。洗浄したのが右の部分です。白い目地が出てきました。床は、下が洗浄した部分です。きれいに汚れや苔が取れていますね。教会員と一緒に汚れを落とし、きれいにして、来会者にすっきりした感じを味わっていただきたいと思います。

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「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。イザヤ1:18

2013年4月 7日 (日)

復活祭のあとで

復活という望み 使徒23:111

先週は、復活祭でした。そして本日の午後には、召天者記念礼拝がささげられます。そのようなときに、私が埼玉に住むようになってからずっとお世話になった方が亡くなって葬儀があり、復活と天国を今までとは少し違う感覚で思っております。

パウロがローマ市民権を持った人物であると分かると、千人隊長は祭司長たちと議会の招集を命じ、そこに立たせました。パウロは自ら神様の前に清い良心をもって生活してきたことを、大胆にもまず語ったのです。腹を立てた大祭司アナニヤはパウロの口を打つように命じるのですが、彼こそが白い壁であると反論しました。外側をきれいに飾っていても、やがて倒れてしまう建物のようであるということです。かつてイエス様も、偽善者たちをして「白く塗られた墓」といわれましたが(マタイ23:27)、共通するものがあると思います。

この議会は、パリサイ派の議員と、サドカイ派の議員で構成されていました。そのことを見て取ったパウロは、「私はパリサイ人であり、死者の復活という望みのことで裁きを受けている」と訴えました。すると議会は真っ二つに割れてしまい、パリサイ派の律法学者の中には、パウロが特別な人ではないかと言う始末でした。

何故このようなことが起きたのでしょうか。この当時、サドカイ派の人たちは復活も例の存在も信じていませんでしたが、パリサイ派の人たちは、その逆に、死人の復活を信じていたのです。そしてパウロは自ら証言しているように、パリサイ人でした。議会の様子を見て自らの証言をするパウロの巧みな弁舌があったのです。

復活を巡って議会が混乱したように、死人の復活やイエスキリストの復活は議論をして明らかにされるようなことではありません。究極の選択として、聖書の語る復活を信じるか否かという問題です。そして、どちらのことが私たちを幸福にするかどうかということです。

聖書の語る復活は、死人が全く新しい人とされる奇跡です。イエスキリストはその初穂となってくださいました。後に続く私たちも、イエスキリストの復活に倣うものとなるのです。ここに希望があるのです。ですからパウロは、こう言っています。

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。~(1テサロニケ4:1318

ここに、私たちの望みがあります。復活は、イエスキリストが再びおいでになることに結びつけられ、その時、新しい天と地が開ける第一歩となるのです。そして、かつて分かれた愛するものと、お互いが新しくされて親しく再会できるという望みを、与えてくれるのです。

2013年4月 2日 (火)

桜散るなかで、天国に駆ける

桜を散らす雨の日、庄和会堂に集っていた一人の信徒の告別式が営まれた。およそ50年前に旧庄和町に住まいを持ち、タクシードライバーとして15年前までお仕事をされていた方である。奥様の祈りと証しによって信仰に導かれ、以後、庄和町でイエス様の証人として忠実にその奉仕に励んでこられた。多くの病を負いながらも、癒やされ、また周りの人たちに笑顔を絶やさない方であった。

具合が悪くなりながらも、3月3日の礼拝に出られ、翌日入院。肺炎との診断がくだされ、人工呼吸器をつけることになるも回復され、家族や私たちともお話しができるようになった。しかし様態が悪化し、3月27日の深夜、80年の地上の生涯を閉じられたのである。

この方には、私が学生時代の時に具合を悪くしたとき、ご自宅に連れてこられ、約1週間ほど泊まらせていただいて元気になったということがあった。その時以来、いろいろお世話になり、私の両親とも親しくしていただいた。

庄和会堂の信徒会の皆様が心を一つにしてこの葬儀のために奉仕され、大きな悲しみの中にも、神様をあがめる葬儀となった。桜吹雪に送られ、天国で私の父や母と一緒に、名残の花見をしておられるのだろうか。

Sogi

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