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2013年4月 7日 (日)

復活祭のあとで

復活という望み 使徒23:111

先週は、復活祭でした。そして本日の午後には、召天者記念礼拝がささげられます。そのようなときに、私が埼玉に住むようになってからずっとお世話になった方が亡くなって葬儀があり、復活と天国を今までとは少し違う感覚で思っております。

パウロがローマ市民権を持った人物であると分かると、千人隊長は祭司長たちと議会の招集を命じ、そこに立たせました。パウロは自ら神様の前に清い良心をもって生活してきたことを、大胆にもまず語ったのです。腹を立てた大祭司アナニヤはパウロの口を打つように命じるのですが、彼こそが白い壁であると反論しました。外側をきれいに飾っていても、やがて倒れてしまう建物のようであるということです。かつてイエス様も、偽善者たちをして「白く塗られた墓」といわれましたが(マタイ23:27)、共通するものがあると思います。

この議会は、パリサイ派の議員と、サドカイ派の議員で構成されていました。そのことを見て取ったパウロは、「私はパリサイ人であり、死者の復活という望みのことで裁きを受けている」と訴えました。すると議会は真っ二つに割れてしまい、パリサイ派の律法学者の中には、パウロが特別な人ではないかと言う始末でした。

何故このようなことが起きたのでしょうか。この当時、サドカイ派の人たちは復活も例の存在も信じていませんでしたが、パリサイ派の人たちは、その逆に、死人の復活を信じていたのです。そしてパウロは自ら証言しているように、パリサイ人でした。議会の様子を見て自らの証言をするパウロの巧みな弁舌があったのです。

復活を巡って議会が混乱したように、死人の復活やイエスキリストの復活は議論をして明らかにされるようなことではありません。究極の選択として、聖書の語る復活を信じるか否かという問題です。そして、どちらのことが私たちを幸福にするかどうかということです。

聖書の語る復活は、死人が全く新しい人とされる奇跡です。イエスキリストはその初穂となってくださいました。後に続く私たちも、イエスキリストの復活に倣うものとなるのです。ここに希望があるのです。ですからパウロは、こう言っています。

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。~(1テサロニケ4:1318

ここに、私たちの望みがあります。復活は、イエスキリストが再びおいでになることに結びつけられ、その時、新しい天と地が開ける第一歩となるのです。そして、かつて分かれた愛するものと、お互いが新しくされて親しく再会できるという望みを、与えてくれるのです。

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