フォト
無料ブログはココログ

« イグアスの滝へ | トップページ | 気仙沼の男の子はパワーがあるぞ~気仙沼第1日 »

2013年6月16日 (日)

戸を取り払う

宗教か福音か 使徒25:13-22

私がイエス様を信じて間もない頃、「信仰生活には『戸』があってはいけないよ」と言われました。イエス様を信じることは現実の生活の中でのことであり、たとえば日曜日は教会で信仰者として過ごし、あとの六日間を信仰の無い者のように過ごすことは本当のキリスト者では無い、ということだと思います。つまり、信仰と生活がばらばらになっていることを戒めた言葉です。

新しい総督となったフェストは、表敬訪問にやってきたアグリッパ2世を前に、パウロの処置をどの様にしたら良いかたいへん困っていることを告げます。彼は、パウロにはユダヤ人が訴えているような死に当たる犯罪を見つけることはできなかったからです。その彼の言葉の中に、この問題は「彼ら自身の宗教に関することである」というのがあります。イエスの復活は、彼が扱う政治的な問題とは全く次元の異なるテーマでした。霊的なことなのです。しばしばキリスト教も知的なことに傾きがちですが、聖書の語るイエス様の物語は、そして福音は、霊的なものなのであり、人の知識で納得するものではないのです。このことを受け入れるには、聖霊なる神様の助け、導きが不可欠です。

1コリント2:11  いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。

このような態度は、フェストに限ったことではありません。21世紀に生きている私たちにも、同じようなことがあるのです。

先月訪れたブラジルは、カトリックが国教となっています。しかし信教の自由が認められているので、プロテスタント(現地では福音派という言い方らしい)の教会や、土着の宗教があります。カトリック人口は減少している(200073.6%から、201064.6%IBGEブラジル地理統計院の国勢調査)とはいえ、これを無視することはできないでしょう。このような国に移住した日本人の中には、洗礼を受けてカトリックになった人たちがいました。それは信仰からと言うよりも、洗礼を受けなければブラジルという社会の中で暮らしていくことがいろいろな理由で困難だったからです。形だけのクリスチャンと言えるでしょう。

パウロも、イエスの物語や福音を、頭で理解していたことを悔い改め、こう言っています。

私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。

福音は私たちの生活そのものです。イエスキリストの復活が私たちに希望を与え、生きる力となるのは、主の教えが宗教では無く福音そのものであるからです。

そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。

1コリント3:20 

2013.6.23(水無月) 407 

« イグアスの滝へ | トップページ | 気仙沼の男の子はパワーがあるぞ~気仙沼第1日 »

礼拝メッセージ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 戸を取り払う:

« イグアスの滝へ | トップページ | 気仙沼の男の子はパワーがあるぞ~気仙沼第1日 »