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2013年6月 9日 (日)

訴えてやる!?

訴えられても 使徒25:1-12

「冤罪」ということがあります。また不当な訴えで、苦しむということがあります。使徒の働きの後半に描かれているパウロの生涯は、妬みに駆られた人々から不当な訴えを受け、その弁明に終始するかのようなものでした。

新しく総督に就任したフェストは、いったんエルサレムに上りますが、短期間でカイザリヤに戻ってきました。パウロ殺害を企むユダヤ人から、エルサレムに彼を連れてくるよう懇願されるのですが、それを断ったのです。しかし彼はユダヤ人の歓心を得るために、自分が席に着くのでエルサレムで裁判を受けるよう勧めました。周りの人の顔色を見る、軟弱な姿を暴露しています。

それに対してパウロは、毅然として答えます。自分は訴えられているような罪は犯していない、カイザルの法廷に上訴する!と。

これは単に、彼の憤りから出たことではありません。今エルサレムに上れば途中で命を落としかねず、正当な裁判を受けることもないであろうことは容易に想像されました。なによりも、彼が神様から受けたことは、ローマで証しすることであり(使徒23:11)、この最も大切な使命を果たすことができなくなるのです。ローマの市民権を持つパウロは、最後の法廷とも言えるカイザルの法廷に立ち、そこで弁明することが福音を宣べ伝えることになると確信したのです。

現在の私たちは、身に覚えのないことや、いわれのないことで訴えることは滅多にないことです。しかし私たちの心の中に、訴えるものがあります。「おまえはクリスチャンとしてそんなことでいいのか?」「形だけの奉仕で、心がこもっていないではないか!」「教会に行くのは止めた方がいいよ」などといった声です。

これはサタンからきているものであり、私たちを神様の愛から引き離そうとするものです。心理的な作用もあるでしょう。考えてもみてください。もともと私たちは、神様の子供となるにふさわしい者ではなかったのです。パウロは、イエス様と教会に反対する者だったのです。そのような者が救われ、神の子とされ、神様のために仕える者となったのは、神様のからのあわれみに他なりません。それ故、私たちは訴えの声に負けて、心を縮ませてはならないのです。あなたが今確信を持って行っていることをくじけさせようとする声があっても、ひるんではなりません。

たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。1ヨハネ3:20

パウロも、そして主イエス様も、不当な裁判を受けましたが、最後は父なる神様に自らをゆだねました。その思いを、今日新たにさせていただきましょう。

 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。ローマ8:38

2013.6.9(水無月) 406 

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