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2013年8月 4日 (日)

富士山に登るのは

イエスの元に 詩篇121:1-8

今年世界文化遺産に登録された富士山には、例年以上に多くの人たちが登山に、あるいはその近辺に来ているという事です。ちなみに、私もそのひとりであり、先週はELCの教師と一緒のプログラムで、3回目の富士山登頂を果たしました。確かに、実に多くの人たちが来ておりました。

富士山が世界遺産に登録され、昔からこの山に登る人が絶えなかった理由の一つは、信仰にかかわりがあります。江戸時代には、庶民が盛んに富士山もうでをする「富士講」が日本の各地に組織され、今日でもその流れの中で来られる方がおられます。高い山に神々が住む、人間の力を超えたものがあるのではないかと畏れ崇拝することは、日本に限ったことではなく、世界中にみられる営みであると思います。

詩篇121篇は、イスラエルの民が都エルサレムを目指し、神殿に詣でる時に歌われた歌の一つです。彼らは、高い山も海もそれ自身が神ではなく、私たちが自然と呼んでいるものを造られた方がおられるという信仰を持っていました。それは、造り主である神様が人に与えてくださった信仰です。

イスラエルの民にとって、神殿は神を礼拝し、いけにえを捧げて人の罪を購うために大切な場所でした。今日ではその神殿はありませんが、かつての城壁であった西の壁は、イスラエルにとって、またユダヤ教徒にとって聖地となっているほどです。

ところがイエス様はサマリヤの女との出会いの中で、神を礼拝するのは特定の場所や神殿に限られない、真の礼拝とは霊とまことによることであることを示しました(ヨハネ4:21-24)。ローマ12:1にも、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とあるとおりです。このことは、実は旧約聖書にも示唆されています。ソロモンが神殿を完成させ、神にささげる祈りをしたとき、真の神様は人の手で造った宮などに入れることはできない方であることを、知っていたのです。

NHKの番組で、富士山を目指す人々にその登山道の6合目でインタビューしている番組がありました。いろいろなものを背負ったそれぞれの人たちが、頂上を目指して登って行くのです。確かに、私たちにはそれぞれの重荷があります。イエス様は、その重荷を持ったまま、ありのままでご自身の元に来るよう招いておられます。その招きの声を聞くことは、天の都を目指す巡礼者として私たちの道行の一こまなのです。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

マタイ11:28-30

2013.8.4(葉月) 409 

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