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2013年10月

2013年10月27日 (日)

イエスに倣う

2013.10.27 丘の上記念会堂 山田豊

 

巡礼は、目指す人を追い求める旅です。12日の土曜日に、江戸殉教キリシタンが引き回されたコースを、23名の方々と一緒に歩いてきました。1623年元和9124日に市中引き回しの上磔にされた50人のキリシタンを偲ぶ、巡礼ともなりました。

 

へブル書11章は、信仰に生き、信仰に死んでいった人たちの物語がまとめられている個所です。私たちが知っている有名な()人物もあれば、あまりなじみのない人もいるでしょう。36節からは、名もない人たちが多くの苦しみを受けたことが記されています。ここに書いてある描写はそのまま日本のキリシタンが受けた迫害、弾圧に当てはまります。聞くだけで痛みを覚える厳しい処罰を受けたのでした。貼り付けられた人たちはそのような苦難の中にあっても、恨みや呪いの言葉を言うことなく、むしろとりなしの祈りをし、互いに励まし合ったと言うのです。イエスキリストの愛を、証ししたのです。

 

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

 

1コリント13:3

 

雲のような証人とは、このような殉教者たちです。そして、今の時代に召された人たちです。彼らは、イエスキリストにあって、一つとされているのです。さらに私たちともひとつなって、今生きている私たちを応援してくれているのです。ちょうど、競技をしている者と、その応援をしている観衆が一つになって、ともにゴールをめざしているようにです。走っている者は、たとい倒れても起き上がり、歩いてでもいいですから、ゴールを目指すことです。

 

私たちの信仰の生涯も、これに例えることができます。イエス様をめざして、進むのです。ただし地上のレースと違うのは、賞を受けるのは天国であって、この世での生涯がすべてではないのです。イエス様を信じ、その弟子となる道は、天国にまで続くのです。イエス様に倣う道を、今日も進んでまいりましょう。

 

 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。へブル121-2

 

2013年10月20日 (日)

福音的な生活とは?

 

 

   

 

 

                
    
    

2013.10.20(神無月) 418 中央

    

春日部福音自由教会 山田豊

    
    

 

 

 

 

                
    
    

福音に生きる 1コリント15111

    

 

    

 

    
    

 

 

 

本日の箇所(1コリント15:1-11)は、福音とは何かということが、定義的に書かれているところです。キリスト教会初代の、信仰告白ともいえるでしょう。12節には、福音とは宣べ伝えられるものであると書かれています。新約聖書には、この二つの言葉がセットになって出ている個所が多くあります。私たちも、キリスト者の使命は福音を全世界に宣べ伝えることだと言ったりします。また福音は、信ずるものです。宣べ伝えらえた言葉を聞いてそれで終わりではなく、それを受け止めて考え、信じることが求められています。そして福音は、救いをもたらすものです。福音を信じる者は皆、救われるのです。

38節には、福音の内容が書かれています。イエス様の十字架の死と復活です。復活とは死んだイエス様が新しいからだになって甦ることであり、その目撃証人がこの書簡が書かれたとき大勢いることが記されています。死と復活とともに、イエス様の聖霊によってみごもった処女マリヤから生まれたことをあわせれば、イエス様の物語がここにあるのです。

911節には、このイエス様と出会ったパウロの自分の証言が書かれています。パウロ自身が福音に生きた者となったことを証ししているのです。

福音とは何かを一言でまとめるのは難しいと思います。旧約聖書の背景から説き起こし、イエス様の生涯、最後の審判まで網羅されている壮大なグッドニュースでしょう。しかしあえて今の私の言葉で言えば、福音とはイエス様の物語であり、福音に生きるとはそのイエス様の物語に自分の物語を重ね合わせることではないか、と思っています。

13日の土曜日、「江戸キリシタン巡礼ツアー」に参加してまいりました。162312月に50名のキリシタンが処刑されました。江戸時代初期、元和の殉教の一つです。現在の浅草橋から品川の札の辻まで引き回され、そこではりつけられて火あぶりの刑に処せられたのです。10月とは思えない痛いほどの日差しのもと、殉教した人たちがどのような思いでここを歩いたのかと考えながら、歩きました。ゴールは、品川駅近くのカトリック高輪教会でした。地下にある納骨堂に案内されたとき、今まで味わったことのない感動を受けました。それは、ここに葬られている方々と、あの江戸の殉教者たちは一つである、同じである、天国で一つとされているという感動です。殉教者という言葉は、ギリシャ語の証人ということばから出たものであり、イエスを証しする人という意味です。苦難の中でも、彼らはイエス様から目を離さなかったのです。私たちが今いるとこで、イエス様の生涯に自分を重ね、イエス様の視点で過ごすことが、福音に生きるということだと、実感させられたのでした。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。へブル121-2

2013年10月11日 (金)

体育の日は

 

 

   

 

 

                
    
    

2013.10.6(神無月) 野外礼拝 

    

春日部福音自由教会 山田豊

    
    

 

 

 

 

                
    
    

目標をめざして ピリピ312-16

    
    

 

 

 

7年後の2020年に、東京でオリンピック、パラリンピックの開催が決まりました。若いアスリートに夢と希望を与え、経済効果も期待されています。おもてなしのためのボランティアの募集や養成も始まったようですね。その成功を目指して、走り出したような雰囲気です。

1964年、日本で初めてオリンピックが開かれました。1010日の土曜日に開会式が行われた、オリンピック東京大会です。この日を記念として、2000年までは1010日が体育の日でした。オリンピックを契機に、スポーツの振興だけでなく、街が整備され新幹線が走り、戦後の日本を元気づけ、経済的な繁栄や幸せな国民生活を追い求めてきました。その目標は実現できたようですが、私たちは今本当に幸せ感を味わっているでしょうか。

1924年のパリオリンピックに、イギリスの代表として、エリックリデルというスコットランド人が陸上競技にエントリーしていました。彼は100メートルのレースが日曜日であったために、信仰を優先して出場を辞退しました。チームメイトの憤慨を買ったかもしれませんが、100メートルのレースには他の選手が出ることになり、彼はそれでこれまでやったことのない400メートルに出場しました。そこでなんと当時の世界新記録を打ち立て、みごと1位となり金メダルを取ってしまったのです。4年後のオリンピックにも期待されたのですが、その後神学校に学んで宣教師となり、中国に遣わされました。日本軍の侵攻によって捕虜となり収容所に入れられ、1945年の2月に病のために亡くなりました。43歳でした。つらい収容所での生活でしたが、仲間にスポーツを教え、日本人を憎むことなく祈ることを実践していたのです。彼の生涯は映画「炎のランナー」で知られるようになりました。リデルの目標は、どのような時でもイエス様から目を離さず、自分に与えられた人生のレースを走りきることだったのです。

本日の野外礼拝でイエス様を見上げ、それぞれの目標に向かって進む一コマを、この運動会で精いっぱいあらわしてまいりましょう。 

 

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

ピリピ313,14

2013年10月 8日 (火)

汗をかこう

 10月8日、丘の上健康体操を行いました。今回も講師は、坂路接骨院院長の坂路孝夫先生。健康に役立ち前向きな人生のためのお話をユーモアを交えながらしてくださり、音楽に合わせて体を動かしました。手をあげたりおろしたりするだけなのですが、これが結構難しい!でも、よい汗をかきました。一日の中で「汗をかく」ということが、実は大事とのこと。たしかに、エアコンのきいた部屋から出ることのない仕事や日々の暮らしは、どこか不健康ですね。

 体を動かした後は、夫人のお話し。減塩が良いといわれていますが、実はミネラルを豊富に含んだ塩を適量とることの大切さを話してくださいました。合わせてこれから秋、冬に向かう中で、冷え性対策のお話もあり、大変役立つお話となりました。夕方、少し薄暗くなった頃、10日くらいブルに軽くランニングをし、いい汗をかきました。

2013年10月 7日 (月)

春日部の麦わら帽子

 ブログにアップしたつもりが、なんとアップされてない!というわけで、気を取り直して書いております。

 春日部市の特産品といえば、桐ダンス、桐小箱、押絵羽子板、そして麦わら帽子です。暑い夏、帽子屋さんをたずね、生まれて初めて自分の頭にあった麦わら帽子を作っていただきました。出かけたのは、市内の豊野工業団地にある春日部帽子村工房。職人さんが「SHOZO」というブランド名で、一つずつ注文に応じて作っておられます。製品は主に百貨店、デパートにあるとのこと。有名デパートの地方のお店に出されているのが多いそうです。小さな工房は、形も色も、そして素材も様々な帽子が所せまして並べられており、奥のほうは作業場になっていました。いい雰囲気ですね!Skasukabe_boshimura

 麦わら帽子は、大切に使うと次第に色が変わり、素敵な飴色になるとのこと。数百年前の外国の麦わら帽子が掛けてありました。確かに手作りの帽子は、大切に使いたいですよね。職人さんの思いがこもっているのですから。10月は衣替えですが、体育の日ごろまでかぶっていられるとか。秋の作品も楽しみですが、もうすこしSHOZOさんの麦わら帽子をかぶっていたいと思います。Yamarin

2013年10月 6日 (日)

復活から信望愛へ

教会の使命 使徒4:23-35

エルサレムに生まれた初代の教会から今日まで続く教会の使命、キリスト者の神様からゆだねられたミッションとは、なんでしょうか。なにやら大上段に構えたような問いかけになってしまいました。

使徒の働きを通して知ることができるのは、復活の主イエスキリストを宣べ伝えることでしょう。迫害の中にあっても、教会の人たちはイエスキリストの復活を宣べ伝える、自らも新しいからだによみがえることを信じていたのです。そして、その信仰告白にふさわしい新しい生活を、お互いの交わりの中で現わしていきました。イエスを信じる信仰の決心をして終わりではなく、復活信仰にふさわしい生活をしていた、つまり、イエスの弟子としての生涯を全うしたのです。

ペテロとヨハネは、イエスのことを教え、病人を癒したことを訴えられて、捕らえれました。散々脅かされて釈放されたのですが、彼らはひるむことがありませんでした。教会はこのことを聞くと、かえって心を一つにして神を賛美し、大胆にみ言葉を語ることができるよう祈ったのです。私たちの罪をゆるすために死んでくださったイエス、購いのキリストを宣べ伝えるだけでなく、死からよみがえった方を語ったのです。復活こそ、私たちに信仰を与え、希望を持たせ、そして愛の人に造りかえる土台となることです。この確信を与えてくれるのが、聖霊なる神様にほかなりません。使徒の働きは聖霊がどのように信者に働いてくださったかを示す、歴史の文書であるゆえんです。

過日、葬儀の司式をいたしました。イエス様の十字架、葬り、そして復活について語らせていただきました。その後列席しておられた方から、小さな本をいただきました。内村鑑三の薫陶を受けて伝道者となった方について書かれた、伝記的な読み物です。その中で次のような文章がありました。

「神の智恵は、私たちの智恵と想像をはるかに超えています。キリスト教の信者と自称して、イエスの復活の事実は信じているが、自分もまた、イエスとともに、復活体を頂くという確信を持つ者は少ないのではないかと思います。その証拠に、キリスト教の葬式においても、天国の話は出ても、復活に関する説教をあまり聞いたことがありません。あまりにも非科学的であり、人々に誤解を招く恐れがあるため、あえて触れないのかもしれません。先生(小西芳之助師のこと:注は山田)、復活の信仰は葬式のときだけではない。日々の生活の中で、復活の恩恵を味わいつつ、そこから、喜びと力を得るのである」

まことにその通りです。イエスキリストの復活を宣べ伝えた教会の交わりは大きな恵みがあって、持ち物を分かちあうという愛の交わりがあったのです。復活のイエスキリストに生き、この方を宣べ伝えることは、今日の教会の使命なのです。

ローマ10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

2013.10.6(神無月) 416、丘の上 

2013年10月 5日 (土)

死は終わりではない

 9月最後の日曜日を挟んで、二つの葬儀にかかわり合いました。一つは、故人の遺骨を埋葬する樹木葬で、もうひとつは前夜式と告別式です。ともに悲しみの場面ですが、復活の主イエスキリストを信じる信仰をもとに、ご遺族とふれあいを持ち、み言葉を語らせていただきました。

 最近は、葬儀やお墓の形式がずいぶん変わってきています。樹木葬もその一つでしょう。霊園の方によれば、人はチリに帰る、そして故人の御霊が木に宿って末長くお守りする事ができる、ということでした。確かに人はチリから造られたのでチリに帰る、その意味ではこのような埋葬の仕方は意味があります。私の故郷では、骨箱から出した骨を、そのままお墓に入れてしまいます。これは以前ブログにアップしたことです。しかしそこに、復活の信仰はありません。

 葬儀では、故人をしのんでお話をするわけですが、その中心はイエスキリストの購いの十字架であり、復活です。この復活は、私たちを信仰と希望と、そして愛に導くものなのです。復活を信じることは、人の生活を変えるのです。

 敬愛する古山洋右先生は、ビリーグラハムの通訳をされるなど世界的に知られた牧師でした。1995年、62歳で召されましたが、その少し前に他の先生方と一緒に病床に見舞った折、一人一人の手を取って祈ってくださいました。ここは天国に行く前の待合室だと、語っておられたことばが忘れられません。あるとき、その古山先生も含め、他の牧師先生たちとなにかの集会の帰り、車に乗っておりました。多くの牧師が一台の車に乗っていれば、ちょっと危険ですよね。交通事故でみんな死んでしまったら、だれが葬儀の司式をしてくれるのか、という話になりました。その時、くだんの古山先生が「僕がよみがえって司式をするから大丈夫だよ」と言われたのです。一同これには大笑い。先生はこの時だけでなく、生涯復活の信仰に生きておられたのです。

 イエスキリストの復活を信じることは、前向きの人生の力となるのですね。

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