フォト
無料ブログはココログ

« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »

2013年12月

2013年12月29日 (日)

主のために

 

主のために ルカ221-35

 

 

2013.12.29(師走) 424、丘の上

春日部福音自由教会 山田豊

 

私たちの主であるイエスは、ユダヤ人の男子としてお生まれになりました。ルカ2:2124には、この当時の慣習に従って、イエスが両親によって神にささげられたことが記されています。すなわち、8日目に割礼を受けたこと、母マリヤが律法に従って清めの期間を守ったこと、そしてその期間が終わった時に、犠牲の動物(鳩であったと思われる)を携えて神殿に上ったことです。クリスマスの神秘は、神が人となられたことです(ヨハネ1:14)2124に書かれていることは、イエスが文字通り人としてその歩みを始められたことを示しています。

彼らはエルサレムで、シメオンという人と出会います。彼の年齢は不詳ですが、イスラエルの慰められることを待ち望んでおり、キリストを見るまでは死なないというお告げを受けていたので、老人であると思われます。マリヤとヨセフに連れてこられた幼子イエスを見たとき、彼はまさにこの子供こそが待ち望んでいた救い主キリストであることを悟りました。そして神をほめたたえたのでした。

日本人は、日の出を「ご来光」と言います。山頂や新しい年の初めに見る日の出を、特別なものと感じています。このような思いは、ユダヤの人たちも同じであると思います。ガリラヤ湖で、山あいから昇ってくる太陽を見たとき、それは暗闇を破るとても大きな光でした。

イエス様の誕生は、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。イザヤ9:2の預言の成就だったのです。そのことを実感しました。

シメオンは、母マリヤに対して、もう一つのことを告げました。それはこのイエスが人々の反対を受けるしるしであり、苦しみを受け、そのことのゆえに母であるマリヤは胸を槍で突き刺されるような経験をするということです。イエス様が十字架にかけられるという、受難の預言でした。そしてそれは文字通り実現しました。映画ナザレのイエスでは、十字架から降ろされたイエスを抱いて、嘆き悲しむマリヤが良く描かれていました。この構図は、ピエタと呼ばれるようになり、聖画や彫刻などで表現されています。イエスの受けられたこの苦しみは、私たちの罪をその身におって神の罰を受け、私たちを救ってくださるためのものでした。

もうじき2013年も暮れようとしています。この一年は、あなたにとってどのような歩みだったでしょうか。喜びとともに、マリヤのような悲しみを経験された方もあるでしょう。しかしすべては、主のための歩みだったはずです。そこにも、私たちの思いをはるかに越えた大きな神様の愛があるからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。1ヨハネ1:9

2013年12月22日 (日)

求道の果てに

2013.12.22(師走) 423 丘の上

春日部福音自由教会 山田豊

 

主イエスキリストのご降誕、おめでとうございます。本日は、降誕祭を覚える主日の礼拝の日となっています。

本日のテキストは、東方の博士が幼子イエスにまみえ、礼拝をささげる物語です。出来事としては、この博士たちの来訪は、ルカの記している羊飼いの来訪から八日目がたち、聖家族がイエスに割礼を施すためにエルサレムに上ったあとのことだと思われます。博士と訳されている言葉は、賢者、王とも訳され、言語では「マゴイ」と書かれています。彼らはユダヤから見て東方のペルシャあたりから来た、星の運航を研究している人たちだったと思われます。羊飼いたちよりもずっと長い、苦難の旅であったと思います。その旅は、私たちの人生を象徴するものでもあるでしょう。

2次世界大戦の終結から40年後の1985年に、西ドイツの大統領であったヴァイツゼッカー氏は「荒野の40年」と題する演説を連邦会議で行いました。キリスト者である大統領は、出エジプトを果たしたイスラエルの民が40年間荒野をさ迷い歩かなければならなかった歴史に例えて、先の大戦で犯したドイツ民族の罪を悔い改め、新しい平和への道を歩む決意を語ったのです。この演説はしばしば引用される味わい珠玉の言葉が織り込まれており、日本語にも翻訳されました。ちなみに、ヴァイツゼッカー氏は日本のある陶芸家がベルリンの壁の破片を釉薬として作った楽茶碗を購入し、その銘をUnity in Peaceと名付けたのです。素晴らしい感性ですね。

マタイが描く東方の博士の姿は、私たちが自らの人生を歩んでいく姿を想起させます。あなたの人生は、荒野のようなものだったでしょうか。鳥取の砂丘よりも広くて深い、砂漠のようなものだったでしょうか。あるいは、緑豊かで植物が生き生きと茂るさわやかな草原のようなものであったかもしれませんね。そのような人生はすべて、求道の旅です。博士たちが旅の果てに見つけることができたのは、新しい王としての救い主キリストでした。そのキリストに、彼らは持ってきた宝物のすべてを差し出して礼拝をしたのです。このキリストを礼拝すること、それこそが、クリスマスの真の意味なのです。

ヴァンダイクの短編小説に「もう一人の博士」という作品があります。博士たちに関する伝説をもとにして作られた小説です。集合時間に遅れたもう一人の博士を求道者に見立て、救い主を求めて一生を捧げる人の苦しみと美しさを描いているすぐれた作品です。私たちの求道の果てには、御子を信じるものの希望である、天国があるのです。

 

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。1ペテロ3:18

 

 

 

2013年12月15日 (日)

神様がともにいてくださる

神の御子イエスキリストの誕生物語は、マタイの福音書と、ルカの福音書に書かれています。マタイの福音書には「イエスキリストの誕生は次のようであった」とありますが、ヨセフの葛藤を中心に描かれています。

ヨセフとマリヤは婚約中でしたが、まだ一緒に住んではいませんでした。そのマリヤが身ごもったということが、ヨセフの耳に入ってきました。まだ一緒になっていないのですから、マリヤが他の男性と関係を持った、つまり姦淫の罪を犯したとしか考えられません。彼は「正しい人」でしたから、このような女性は当時の律法に従って石打にされることを知っていました。しかしそのようなことは到底ヨセフにはできないことであり、彼女を気遣って「内密に」離縁することに決めたのです。これは彼にとって、大きな苦悩となりました。

このような時に夢の中で天使が現れ、マリヤの妊娠は聖霊による神様の特別なことであり、恐れることなく彼女を妻として迎え、生まれる子供は救い主であることを告げるのです。このようなことは、到底理解できないことであり、人々にマリヤの妊娠が聖霊によるものであって罪を犯したのではないと語ったところで、誰が信じてくれるでしょうか。しかしヨセフはマリヤを妻として受け入れる決心をし、子供が生まれるまで、彼女を知ることがなかったのです。男としての欲望を自制したということです。彼は以前の決心とは正反対のことを、新たに決めたのです。

ヨセフは、なぜこのようなことができたのでしょうか。それは信仰による決断です。神がともにいてくださる、という信仰が、このような決断をさせたのです。天使の語る神様の言葉を信じたので、恐れていた彼の心が寒さの中にも澄み切った青空が広がる小春日和のように暖かくなったのです。じつに「恐れるな」という言葉は、かつてマリヤにも語られた言葉であり、クリスマス物語を理解するキーワードとなっています。

しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。(ルカ129,30

私たちには、何かしらの恐れがあります。人として生きている限り、漠とした不安から逃れることはできないでしょう。そのような私たちに、神はともにいてくださると語ってくださるのです。絶望的な孤独の中でも、神がともにいてくださる、イエスはインマヌエルのお方であることを信じるものは、幸いなのです。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。マタイ28:20

2013年12月 7日 (土)

フットプリント~鳥取砂丘にて

11月29~12月2日まで、鳥取県琴浦町に住む小林夫妻を訪ねました。髙橋敏夫牧師の伝道旅行に随行です。空港に行く前、鳥取砂丘を歩きました。そこで思い起こしたのが、フットプリント「足跡」という詩でした。

 

あしあと

 

 

 

ある夜、わたしは夢を見た。

 

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

 

 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

 

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

 

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

 

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

 

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

 

そこには一つのあしあとしかなかった。

 

わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

 

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

 

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

 

 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

 

  あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

 

  わたしと語り合ってくださると約束されました。

 

  それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

 

  ひとりのあしあとしかなかったのです。

 

  いちばんあなたを必要としたときに、

 

  あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

 

  わたしにはわかりません。」

 

 主は、ささやかれた。

 

 「わたしの大切な子よ。

 

  わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

 

  ましてや、苦しみや試みの時に。

 

  あしあとがひとつだったとき、

 

  わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 

 

 

 

 

マーガレット・F・パワーズ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

Dscf9199

« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »