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2014年1月12日 (日)

地に降られた神 創世記⒒:1-11

 

2014.1.12(睦月) 426、丘の上

 

人は古代から、神々は高いところにいると考えてきたようです。その神々に近づくために、あるいは礼拝や生贄をささげるために、必然的に高い建物を造ってきました。島根にある出雲大社の本殿の高さは24メートルですが、平安時代には48メートルの高さがあったと言われています。

そのような背景にある物語が、本日の箇所であるバベルの塔の物語です。もちろん聖書はこの出来事をおとぎ話としてではなく、歴史上の出来ごとして描いています。

ノアの時代の洪水の後、創世記の著者のいた地域は、一つの言語でした。彼らは町を造って、天にまで届くほどの高い塔を建てようと企てました。それは自分たちの名を挙げて、その町にとどまり続けるためでした。彼らの心は、自ら神のようになろうとする高ぶりと、全地に広がるようにとの神様のご命令に逆らうことでした。このことのゆえに、彼らの言葉が混乱させられ、工事は中止に追い込まれ、それぞれ勝手に地の全面に散らされるということになっていきます。まさに、

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(箴言16:18)

とあるとおりです。

この箇所で興味を引くのは、「そのときは人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。」という言葉です。神様が人の世界に降りてこられた、というのです。この時は、実際どのように降りてこられたのかわりませんが、人のしていることをご覧になった、ということでしょう。日本人は、神々は霊として降りてくると考えてきました。神々が宿るわけです。たとえば、大きな木、大きな岩、柱などです。そしてこの世の領域と違うことを示すために、注連縄(しめなわ)を張りました。たとえば神社の境内地の磐座(いわくら)とえいば、神のいます所とされています。

聖書にも神が降ってこられるとありますが、何かにとりつくということではありません。神が人となって地に誕生したということなのです。それがご存知のように降誕祭、クリスマスであり、神が人となって降られたことを記念する時なのです。またこの神様が聖霊として降られたのが、使徒2章にある五旬節の出来事だったのです。いろいろな国ことばで話しだしました、皆神様をたたえるということにおいて、一つだったのです。そしてこの日、教会が生まれました。今日では、聖霊降臨日として記念されています。

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒24)

主であるイエスキリストは人となって降られた神様なのです。そのお方は、人の世にあって最も低いところに降られました。すなわち、人々から辱めを受け、ついには十字架につけられて処刑されてしまったのです。十字架は辱めの場所でしたが、それを忍ばれたのです。神は、私たちを引き上げるために、イエスキリストとしてこの世に降ってこられたのでした。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10,11)

 

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