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2014年1月19日 (日)

生涯を貫くもの 創世記15:1-6

2014年1月19日 丘の上礼拝説教

 

アブラハムのもともとの名前は、アブラムと言います。しかし彼が99歳になった時、神様はご自身を全能の神として現し、契約を結び、その名はアブラハムとなると言われました。それは、多くの国民の父という意味です。アブラハムはイスラエル民族の父というだけでなく、ユダヤ教徒、キリスト教徒、そしてイスラムの人たちにとっても霊的な父となっています。21世紀の人類が一緒に仲良く生きようと考えるならば、このアブラハムの物語を思い起こし、彼の生涯に学ぶ必要があるように感じます。

アブラハムの一生は、創世記11章の最後から始まり、25:11まで記されています。父と一緒にウルを出てハランに住み、さらに彼は信仰によって神様の示される約束の地をめざしてそこを発ってカナンの地に定住します。また、自分の子孫は空の星のように多くなると言われた神様の言葉を信じ、それによって義と認められました。エジプトに降った時には、妻のサラを自分の妹であると言って保身を図るというようなこともありましたが、信仰によって歩んだ人であったと言えるでしょう。

アブラハムの生涯を描いた書物には、「信仰の高嶺めざして~アブラハムの生涯」というタイトルがあったように記憶しています。彼の生涯を山登りに例えるなら、ようやく与えられた一人息子のイサクをモリヤの山でささげたことが、山頂に立った出来事と言えるでしょう。神様の命令に従って祭壇を造り、イサクをその上に乗せてまさに屠ろうとしたとき、み使いによってストップがかかったのです。実際にはイサクの命は助かりましたが、アブラハムにとってその行いは神様への従順を試される試験にパスしたのであり、イサクを神にささげたと同じことでした。

あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。(ヤコブ2:2224)

その後の彼の生涯は、下山に向かったと言えます。イサクの結婚は喜ばしいことだったでしょうが、サラとの死別、再婚、そして自らの死はまさに下山の旅であり、彼の人生の最後となりました。特にサラの死は、彼にとって一番つらい出来ことでした。聖書は淡々と「アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。」(23:2)とだけ書いています。その子イサクは、リベカとの結婚が「慰めを得た」ものとなりました(24:67)。この時、アブラハムはサラのために、ヘブロンのマクペラに墓を購入するのです。400シェケルであった記してありますが、これはかなりの高額です。夫として、アブラハムは精いっぱいのことをしたのです。後にアブラハムが死んで時には、遠く離されていたイサクと異母兄弟のイシュマエルが来て、共に父を葬るのです。

アブラハムの生涯を貫いていたのは、神に対する信仰でした。キリスト教の教えを信じるということではなく、神様のからの促しと、内側から突き動かされるような思いをもって歩んだ生涯だったでしょう。あまり良いたとえではないかもしれませんが、団子を突き刺している櫛のように、アブラハムの一つ一つの出来事を貫き、神の国への道びいたのです。

また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。(コロサイ1:10)

 

 

 

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