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2014年2月

2014年2月23日 (日)

紅爐上一點雪

紅爐上一點雪(こうろじょういってんのゆき) 

本日は、東京武蔵野福音自由教会での奉仕なので、ちょっと変わったお話しです。

「紅爐上一點雪」

 先週の出げいこの掛物にあった、禅語である。「茶席の禅語」には「出典『碧巌録』 紅炉上一点雪は、紅々と燃える炉のうえに一点の雪が降ってきても一瞬のうちに消えてしまうように、仏心や仏性をもって煩悩や妄想を払いのけることをいう。」とあった。

この言葉の解説を調べてみると、「生への一かけらの執着もなく、死への微塵の恐怖もない、死ぬもよし、生きるもよし」「生きること死ぬことに執着しないこと」「煩悩が起きても、それに引きずられないこと」などという解説があった。また「紅炉」は、しっかりした心、求道心、強い意志を表す言葉である、ともあった。

子供のころ、学校には達磨ストーブが置いてあった。石炭の燃えているストーブに、雪玉やつららを押し付けると、ジュ~と音と立ててたちまち溶けていったことが思い起こされる。

この言葉は、「私にとっては生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」というパウロの心境を思い起こさせる(ピリピ1:21)。何事にもとらわれず、ただ自分の道を進んでいく、ザビエル画像にある真っ赤に燃えるハートのように、イエス様の心がすべてを溶かして、神様への道に私たちを導いてくださるのではないだろうか。

2014年2月 9日 (日)

旅路の祝福 創世記49:22-26

旅をすることは、楽しいことです。出掛ける人も見送る人も、無事に帰ってくることを願い、再会できることを楽しみにしてその日を待つのだと思います。

本日取り上げる人物であるヨセフは、先週お話ししたヤコブとラケルの間に生まれた子供です。彼はヤコブに溺愛されて育ち、兄たちの妬みを買います。ある日穴に突き落とされたヨセフはエジプトに売られ、父親には獣に食い殺されたと報告されてしまいます。その後いろいろな苦難がありましたが、彼はエジプトでパロに仕える宰相となり、カナンの地の飢饉で食べ物を求めてやってきた兄たちと再会いたします。そしてついに、父と弟ベニヤミンとも会うことになります。この辺りは大変感動的なストーリーで、創世記4245を改めて読まれることを、お薦めします。

今日の聖書箇所は、彼の父ヤコブが自らの死の近いことを知って子供たちを呼び寄せ、一人一人を祝福する場面です。彼らがイスラエル12部族の先祖となるわけです。ヨセフへの父の言葉は他の兄弟たちに勝って、祝福に満ちています。多くの苦難をなめたヨセフでしたが、一言でいえば「実を結ぶ若枝」だったのです(22)。彼はエジプトにおいて高い地位につき、財産も妻や子供たちにも恵まれました。飢饉のときには、故郷の父や兄たちのことをひと時も忘れることなかった心優しい人物でした。何よりも素晴らしいのは、彼が死の床に就いたときに、自分の骨について指示していたことです。すなわち、自分の葬りについてしっかりとした考えを持ち、残された人たちにそれを伝えたのです。異郷の地エジプトではなく、先祖の地に葬られることを願ったのです。聖書は、このことを信仰によることと評価し、実際にモーセがエジプトを脱出するときに実現したのです。

信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。(へブル11:22)

モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない。」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。(出エ13:19)

 私たちの社会でも、自分の葬儀やお墓について、生前しっかりと家族などに伝えておくようと言われています。大きな病にかかった時、どのような治療を受けたいかというようなことも含めて、エンディングノートに記すようにということも言われています。まさに自分の人生という旅路の最後をどのようにするか、死の備えをしっかりすることが本人だけでなく、遺された人たちへの思いやりでもあると言わんばかりの風潮です。確かにこれらのことは、大切なことでしょう。

しかしもっとも大切なことは、創造主である神様に会う備えをすることです。その備えとは、特別なものではありません。日々の生活の中で、神様を第一として過ごすことです。旅路の祝福は、どのような形で最期を迎えるにしても、神に会う備えをして今日を過ごすことなのです。

それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。(アモス4:)

2014年2月 5日 (水)

寒梅

寒  梅    新島 襄

庭上一寒梅

笑侵風雪開

不争又不力

自占百花魁

【通 釈】

庭先の一本の梅の木、寒梅。風に耐え、雪を忍び、笑っているかの様に、平然と咲いている。争ったり努力したりして、無理に咲こうとしているのではない。自ずとあらゆる花のさきがけとなったのだ。

 

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2014年2月 2日 (日)

和解の福音 創世記32:1-7

     先週の新聞記事に、昨年就任したローマ・カトリック教会のフランシスコ法王が、活発な首脳外交を進めている、とありました。「無意味な殺戮(さつりく)を終わらせるため、武力ではなく倫理的な法の力を生み出せ」と語り、争いではなく、和解の道を示そうとしています。

 

兄エサウをだまして、父イサクから長男としての祝福を受けたヤコブは、家を出て逃亡の旅に出ます。ハランまで足を延ばしたヤコブでしたが、兄と和解するために戻ってくるのです。そしてヤボク川の渡しを越えたところでエサウと再会し、抱き合って互いに涙を流し、和解することができました。

本日の箇所は、その様子を詳細に描いています。しかしこれを読むと、神様に打たれ名前をヤコブ(押しのける者)からイスラエル(神の王子)に変えられた人でありながら、兄を恐れ、自分を受け入れてもらえるよう細心の注意をもって臨んだことがわかります。自分の一行をグループに分け、兄に会うまで7回も地にひれ伏し、たくさんの贈り物を用意したことなど、神様より人の世の習いを優先させているかのようにも取られる行為です。

しかし彼は、エサウに会う前、神が自分とともにいてくださることを経験します。ベテルでは、天に梯子がかかり、天使たちが上り下りしている夢を見ます。旅を続けていると天使の軍勢が現れ、そこをマナイム、神の陣営と名付けることにしました。そして兄エサウに会う直前、たった一人になった時、ヤボクの渡しでみ使いと格闘し腰のつがいを打たれながらも神の祝福を求め、イスラエルと呼ばれるようになるのです。このような経験を通して、かたくなな彼の心は砕かれ、兄と和解する備えをしていったのです。

新約聖書を通してイエスキリストは、和解のために来られたことを知ります。

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。コロサイ1:20

私たちはイエスキリストのゆえに、三つの和解を得たと言えるでしょう。第一は、神様との和解です。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。ローマ5:10 神からの罰を受けることなく、命に生かされる者となったのです。第は、隣人との和解です。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、エペソ2:14 自分と違う人を認め、共に過ごすことです。そしてもう一つは、自分自身との和解です。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。マタイ22:39 自分で自分を好きになる、ということです。

裁判の前段階として、調停というものがあります。争っている当事者同士が、第三者の和解案を受け入れれば、裁判にまで発展することはありません。争っている国同士で、和解することはなかなか難しいことです。あなた自身は、いかがでしょうか?神と和解し、隣人と平和を保ち、そして自分自身ともうまくやっていくことができているでしょうか。主は、神の和解を受け入れるよう、今も私たちに語りかけているのです。

こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。2コリント5:20

 

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