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2014年3月16日 (日)

望みを掛ける方   マタイ12:9-21

先週の311日は、東日本大震災から丸3年を迎える日でした。南三陸町の防災対策庁舎で、最後まで住民の避難を呼びかけていて犠牲になった方がおられました。遠藤未希さんという結婚式を間近に控えていた方で、お名前の未希は「未来に希望を持つ人になってほしい」ということで付けらえたそうです。未希さんの命は亡くなりましたが、津波の難を逃れた人たちは、彼女の声に希望生きる希望を与えられたのだと思います。

イエス様を取り巻く人々は、果たしてイエス様を正しく理解していたのでしょうか。神殿を壊すと言ったりするひどい人間だ、古いしきたりや律法に従わない男だと思っていたパリサイ人は、イエスを訴える口実を見つけようとしていました。イエス様は、律法を壊すためではなく、その成就のために来られたのです。

 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄  するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)

大切なのは、文字で書かれた律法よりも、神様に造られた一人一人の人間の命なのです。

またある人々は、イエス様を政治的な苦しみから解放してくれる方、王様であると思っていました。しかしイエスは、人々が無理矢理ご自分を王にしようとしているのを知ると、人々の前から静かに退かれたのでした。本日の箇所も、弟子たちにだけご自分がこれから受ける苦しみと、イザヤ書に預言されている救い主であることを告げました。ここに描かれている救い主は、折れそうな葦や、消えそうになっている燈芯のような弱い人たちとともにいるメシヤの姿です。しかしその方に、ユダヤ人よりも、異邦人が望みを置くというのです。何という皮肉ではないでしょうか。人々の期待と、実際のイエス様の思いがすれ違うことほど、悲しいことはないのです。

十字架につけられたイエス様は、墓に葬られ、三日目に甦られました。しかしそのことを知らない二人の弟子は、気落ちしてエマオへの道を歩いていました。そこに一人の人が彼らに寄り添ったのです。二人は自分たちの望みを居ていた方が、エルサレムで殺されてしまったと言いました。その人は、聖書全体から救い主は苦しみを受けること、しかしそこからよみがえることを語ったのでした。日が落ちそうになって宿に入り、食卓に着いて初めて、その方がパンを取って祝福の祈りをささげたとき、その方がイエス様であると二人は気づいたのです。彼らの心の目が開かれた瞬間でした。

あなたとともに、イエス様はいてくださいます。あなたの心の目は、開かれていますか?辛い状況の中で、目が閉ざされているかもしれません。しかしどんなときにも、そしてどのような境遇であっても、望みをイエス様に置くことを、忘れないようにしたいですね。

それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。エペソ1:

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