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2014年3月

2014年3月28日 (金)

開花宣言

 丘の上の桜が、花を咲かせました。来週の前半には、見ごろを迎えるでしょう。園遊会は、5日なので、しっかり咲いていてほしいですね。それに、うちの娘の誕生でもありますし。

 がんばれ、桜!

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赦しの福音 マタイ18:21-35

イエス様が宣べ伝え、現在もキリスト教会が宣べ伝えているのは、和解の福音です。それはまた、赦しの福音ともいえるものでしょう。初めの教会は、ペテロの説教を聞いた人たちが心を打たれ、罪の赦しのために悔い改めてバプテスマを受けたところから始まったのです。

私は日曜日の夜は、次の聖日の説教箇所を読んで備えとしています。先週は、そのあと寝床で開いた本にその箇所(本日の聖書箇所)にかかわる物語が描かれていました。神様のお導きですね。『心を癒す言葉の花束』(集英社新書)という本で、アルフォンス・デーケン神父の新しい著書です。

デーケン神父は、日本で初めて、死生学の講義を始めた方です。ユダヤ人を迫害するナチス政権下の第2次世界大戦を経験され、これに反抗する勇気と姿勢を貫く家庭で育ちました。この本の中で、人を赦すということにかかわる、ご自身の辛い経験を語っておられるます。戦争が終わり、進駐してきた連合軍を歓迎するために、シーツで作った白旗をもって表に出た祖父が、あろうことか連合軍の兵士に撃たれてしまったのです。目の前で祖父を殺されたデーケン少年は、激しい怒りと絶望にかられます。「汝の敵を愛せよ」というイエス様の言葉を心から実行しなくては、真のキリスト者と言えない。そんな思いが駆け巡る中で、連合軍の兵士が家に入ってきたとき、必死に手を差出し「ウエルカム」と言ったのです。デーケン少年は、兵士が引き上げたとき、声をあげて泣いたのでした。

これはものすごいストーリーです。デーケン神父は、意志のレベルから赦そうとする努力は必要である、と説かれます。感情を大切にすることは有益ですし、私たちの生活を豊かにすることは事実です。それでも、私たちは神様から力をいただき、イエス様に赦されたものとして、感情に逆らってもあえて「赦します!」という自らの意志による宣言が求められる時があるのです。

私たちが人を赦せば、鉛のような重い苦しみから解放され、今まで許すことのできなかった人と、新しい人間関係が出来上がるのです。そして、イエス様の赦しの福音を、この世に表すことができる喜びを、味わうことができるでしょう。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。エペソ4:32

 

2014年3月23日 (日)

苦難の道行き

生老病死は、すべての人間が持つ苦しみです。これはお釈迦様の教えということですが、全くその通りであると言えます。聖書は、このような苦しみの根本原因は、人の罪にあると言います。創造主である神から離れ、苦しみの中で、この神様を見上げることができなくなってしまったのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23) 

生まれてきたこと、生きていること自体が苦しみであるとは、どういうことでしょうか。大きな災害にあって、家族や友人はその犠牲となって死んでしまった、しかし自分は助かった。その時、助かった自分をよかったと思うのではなく、「どうしてあの人は亡くなって私だけ生きてしまったのか!」と生きてしまったことの辛さを抱える人が多くいるのです。

しかしこの思いは、古代ローマ時代に生きた、アウグスティヌスの「告白」に書かれています。彼はカトリック教会では聖人とされ、キリスト教思想を語る上では外すことのできない重要な人物です。教派を越えて、彼の生涯や思想は、今も影響を与えている人物です。若いころは、母に涙を流させる放埓な生活を送っていたと告白しています。そのアウグスチヌスは19歳の時、もう一人の自分とも言うべき親友を得ます。彼は病にかかってしまい、アウグスティヌスは熱心に看病したのですが、自分のいないときにその友人は死んでしまいました。その時のことを振り返って、こう「告白」に書いているのです。「私は、他の諸々の死すべきものが生きながらえているのを不思議に思いました。何故なら、まるで死なない者のように愛していた友人は死んでしまったのですから。また第二の彼であったこの私が、彼は死んだのに生きているのを、一層不思議に思いました。」(中央公論社、世界の名著14 「アウグスティヌス」告白 )生きている事が苦しみであるとは、生まれながらの人間に最初からついていたことだったのです。

アウグスティヌスの哲学的思考は、ここから深まっていきました。多くの苦しみがあったことを記した後、この章の最後では、父なる神様に霊魂が向かう時に初めて安息を得ることができると、告白しているのです。

イエス様は、これから受ける苦しみ、死を弟子たちにはっきりと話されました。三日目に甦ることも語られました。しかしペテロは、そんなことが起きるはずがないと、イエス様をいさめたのです。彼の魂は、神様に向いていなかったのです。

たとい私たちが苦しみの中にあっても、苦難の中で十字架につけられ、よみがられた主を見るとき、新しい望みをもって苦難の道行きを歩いていくことができるのです。苦難の道は、復活、天国へと続いていくのです。

「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」1ペテロ2:21

2014年3月16日 (日)

望みを掛ける方   マタイ12:9-21

先週の311日は、東日本大震災から丸3年を迎える日でした。南三陸町の防災対策庁舎で、最後まで住民の避難を呼びかけていて犠牲になった方がおられました。遠藤未希さんという結婚式を間近に控えていた方で、お名前の未希は「未来に希望を持つ人になってほしい」ということで付けらえたそうです。未希さんの命は亡くなりましたが、津波の難を逃れた人たちは、彼女の声に希望生きる希望を与えられたのだと思います。

イエス様を取り巻く人々は、果たしてイエス様を正しく理解していたのでしょうか。神殿を壊すと言ったりするひどい人間だ、古いしきたりや律法に従わない男だと思っていたパリサイ人は、イエスを訴える口実を見つけようとしていました。イエス様は、律法を壊すためではなく、その成就のために来られたのです。

 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄  するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)

大切なのは、文字で書かれた律法よりも、神様に造られた一人一人の人間の命なのです。

またある人々は、イエス様を政治的な苦しみから解放してくれる方、王様であると思っていました。しかしイエスは、人々が無理矢理ご自分を王にしようとしているのを知ると、人々の前から静かに退かれたのでした。本日の箇所も、弟子たちにだけご自分がこれから受ける苦しみと、イザヤ書に預言されている救い主であることを告げました。ここに描かれている救い主は、折れそうな葦や、消えそうになっている燈芯のような弱い人たちとともにいるメシヤの姿です。しかしその方に、ユダヤ人よりも、異邦人が望みを置くというのです。何という皮肉ではないでしょうか。人々の期待と、実際のイエス様の思いがすれ違うことほど、悲しいことはないのです。

十字架につけられたイエス様は、墓に葬られ、三日目に甦られました。しかしそのことを知らない二人の弟子は、気落ちしてエマオへの道を歩いていました。そこに一人の人が彼らに寄り添ったのです。二人は自分たちの望みを居ていた方が、エルサレムで殺されてしまったと言いました。その人は、聖書全体から救い主は苦しみを受けること、しかしそこからよみがえることを語ったのでした。日が落ちそうになって宿に入り、食卓に着いて初めて、その方がパンを取って祝福の祈りをささげたとき、その方がイエス様であると二人は気づいたのです。彼らの心の目が開かれた瞬間でした。

あなたとともに、イエス様はいてくださいます。あなたの心の目は、開かれていますか?辛い状況の中で、目が閉ざされているかもしれません。しかしどんなときにも、そしてどのような境遇であっても、望みをイエス様に置くことを、忘れないようにしたいですね。

それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。エペソ1:

2014年3月12日 (水)

私たちは帰りたいのです

昨日は、東日本大震災から丸3年たった日でした。市役所で、職員や来庁されている方々と黙とうをささげました。

よ、あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。哀歌5:21 

地上の故郷が破壊され、戻ることのできない多くの方々を覚えます。深い悲しみと痛みの中で、私たちもまた、真の故郷に帰るものとされるように。

2014年3月 9日 (日)

良きものは神から来る ヤコブ1:12-18

キリスト教会の暦、教会歴では、先週からイエス様の苦しみを覚える受難節に入りました。移動祭日である復活祭に合わせていますので、今年は灰の水曜日は35日でした。灰は苦しみを表す象徴でもあり、カトリック教会では断食をして主イエスの苦しみを覚えるということです。

ヤコブの手紙は、国外に散らされて信仰の試練にあっているユダヤ人キリスト者を励ますために書かれました。12節の「試練に耐える人は幸いです」というみ言葉は、マタイの福音書にある山上の説教の八福の教えと同じ書き方です。直訳すれば、「幸いなるかな、試練を耐える人よ」となるでしょう。

確かに、大きな苦しみのある試練を耐えることのできた人は、神様からの褒美として、いのちの冠を受けることができる光栄に預かるのです。ちょうどソチで行われているパラリンピックで、体に障害を持ちながらも苦しいトレーニングに耐えて協議をしているアスリートの姿を思い起こさせます。この試練と訳されているギリシャ語は、誘惑とも訳すことができます。その訳は、バージョンによって異なっています。それぞれの聖書の編集者が、意味を汲んで訳出しているのでしょう。

試練に関するよく知られたみ言葉は、1コリント10:13ですね。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」英語では、この試練という言葉が、トライアルという訳ではなく、テンプテーション(誘惑、試み)と訳されているものがあります。ヤコブ書によれば、同じ苦しみでもそこを通過して命に至るのは試練であり、神様からきている苦しみです。しかし誘惑とは、自分の欲に負けて、罪の苦しみ、死をもたらすものです。ですから「人は神によって誘惑された」と言ってはならないのです。

しかしながら、苦しみにあっている人に軽々しく「その苦しみは、神様からの試練だね」ということもできないでしょう。東北大震災から、この11日で丸3年になります。今回の地震、津波、そして原発の大事故は、神様からの試練なのでしょうか。それとも、人間の欲望がその被害をさらに大きくしたものなのでしょうか?

しかしそのような苦しみであっても、上から来るものは良い贈り物だというのです。人工雪の研究で有名な中谷宇吉郎博士は、雪は天から送られた手紙だと言われました。雪を研究することにより、そこに秘められている気象状況を知り、雪害で苦しんでいる人たちからその苦しみを解き放つことにつながっていきました。雪国生まれの自分にとって、共感することのできる言葉です。

神様は、完全なお方で、私たちに対する慈愛は変わることがありません。自然災害で故郷が破壊されても、病や事故で今までと同じように体が動かくなっても、神様からの贈り物は変わらないのです。

「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」

ヤコブ317,18

2014年3月 2日 (日)

苦難の前に マタイ17:1-13 

先週から暖かい日が続き、ようやく春の訪れを感じるようになりました。キリスト教会の2大祭りは降誕祭―クリスマスと、復活祭-イースターです。復活祭は春を告げる喜びの祭りですが、その前日までを教会歴では受難節とよび、イエスキリストの苦難を思い起こす時となっています。その最初が「灰の水曜日」と呼ばれる日であり、今年は今週水曜日35日となっています。

本日の聖書箇所は、その苦難に入る前の出来事で、イエス様が山の上で光り輝く姿に変わったことから、変貌山の出来事と言われています。かつて、モーセが石の板に刻まれた神様の戒め(十戒)をもって山を下りるときに、光が輝き出ていたことを思い起こさせる出来事です。その様子を目撃したのは、ペテロをはじめとする3人の弟子たちでした。イエスの姿が変わると、モーセとエリヤが現れ、3人は何やら話し合ったというのです。エルサレムでの苦難について話していたのでしょうか。ペテロはあまりの素晴らしい光景に、この3人のために仮の幕屋を立てましょうと叫んでしまうのですが、その時天から声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」これは、かつてイエス様がヨルダン川において、ヨハネからバプテスマを受けたときにかかった天からの声と同じです。

神様が私たちのことを「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」イザヤ43:4と言ってくださっているのと同じです。また「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」ローマ10:17とあるように、イエス様の言葉に聞くことが、信仰生活の第一歩となります。この場合の聞くとは、聞いてそれに従うという態度が求められています。

今日、イエス様の言葉は書かれた神の言葉である聖書に示されています。復活されたイエスが、道々語ったのは、聖書に基づくご自身のことでした。「さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」」ルカ24:44あなたは聖書の言葉を聞いて、読んでいても、それに聞き従っているでしょうか。

イエス様は、ご自分の受ける苦難の前に、まず神様の言葉に聞き、自らの道を整えていかれました。私たちも苦しみの道を通ることがあっても、その前にまず、主の言葉に聞いてまいりたいと思います。

あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。詩篇119:72

 

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