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2014年3月23日 (日)

苦難の道行き

生老病死は、すべての人間が持つ苦しみです。これはお釈迦様の教えということですが、全くその通りであると言えます。聖書は、このような苦しみの根本原因は、人の罪にあると言います。創造主である神から離れ、苦しみの中で、この神様を見上げることができなくなってしまったのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23) 

生まれてきたこと、生きていること自体が苦しみであるとは、どういうことでしょうか。大きな災害にあって、家族や友人はその犠牲となって死んでしまった、しかし自分は助かった。その時、助かった自分をよかったと思うのではなく、「どうしてあの人は亡くなって私だけ生きてしまったのか!」と生きてしまったことの辛さを抱える人が多くいるのです。

しかしこの思いは、古代ローマ時代に生きた、アウグスティヌスの「告白」に書かれています。彼はカトリック教会では聖人とされ、キリスト教思想を語る上では外すことのできない重要な人物です。教派を越えて、彼の生涯や思想は、今も影響を与えている人物です。若いころは、母に涙を流させる放埓な生活を送っていたと告白しています。そのアウグスチヌスは19歳の時、もう一人の自分とも言うべき親友を得ます。彼は病にかかってしまい、アウグスティヌスは熱心に看病したのですが、自分のいないときにその友人は死んでしまいました。その時のことを振り返って、こう「告白」に書いているのです。「私は、他の諸々の死すべきものが生きながらえているのを不思議に思いました。何故なら、まるで死なない者のように愛していた友人は死んでしまったのですから。また第二の彼であったこの私が、彼は死んだのに生きているのを、一層不思議に思いました。」(中央公論社、世界の名著14 「アウグスティヌス」告白 )生きている事が苦しみであるとは、生まれながらの人間に最初からついていたことだったのです。

アウグスティヌスの哲学的思考は、ここから深まっていきました。多くの苦しみがあったことを記した後、この章の最後では、父なる神様に霊魂が向かう時に初めて安息を得ることができると、告白しているのです。

イエス様は、これから受ける苦しみ、死を弟子たちにはっきりと話されました。三日目に甦ることも語られました。しかしペテロは、そんなことが起きるはずがないと、イエス様をいさめたのです。彼の魂は、神様に向いていなかったのです。

たとい私たちが苦しみの中にあっても、苦難の中で十字架につけられ、よみがられた主を見るとき、新しい望みをもって苦難の道行きを歩いていくことができるのです。苦難の道は、復活、天国へと続いていくのです。

「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」1ペテロ2:21

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