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2014年4月

2014年4月27日 (日)

神の備えたもの 1コリント2:6-9

本日は、復活祭の翌週最初の日曜日です。

よみがられた主は、マグダラのマリヤに最初にご自分を現され、弟子たちにも新しい姿でご自分を現されました。その時にいなかったトマスは、自分はイエス様の傷の跡をしっかりと見て触らなければ信じない、と言っていました。しかし一週間後に、トマスのいるところでイエス様は再び現れ、トマスにご自分の傷跡を示されました。彼はその傷に触れるまでもなく、「私の主、私の神」と告白し、信仰を回復することができたのです。見ずに信じる者の幸いを、教えてくれています。

復活は、私たちにご自分が用意したものが整ったことを伝えるために主が現れてくださったことでもあります。弟子たちとともに行った過ぎ越しの食事の時、主は言われました。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ141-3

イエス様が備えてくださったところは、私たちが地上の生涯を終えて行くことができる、天国です。それは、本日のみ言葉のように、人間の思いもつかないようなところです。

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(1コリント2:9) 

死生学を初めて日本で教えたデーケン先生は、ご自分の葬儀ミサの時、このみ言葉を記したカードを参列者に配りたいと考えているそうです。ドイツから日本に来られ、日本時のために労され、この国の土になろうとされているデーケン先生の思いが良く描かれている、聖書の言葉だと思います。

神様の用意してくださったものは、最善のものです。そこに至るまで、私たちも自分の最善の働きをして、かの日の備えをしていきたいものです。

2014年4月24日 (木)

シティーサイクル

 なじみのM自転車屋さんで、自転車を買った。ブリジストンのマークローザ。限定2000台の色付けというグリーンが気に入って、消費税率アップ前の3月末に購入。東岩槻のお店で買ったのもブリジストン製で、20年以上動いてくれた。シティーサイクルとしてはちょっと高いけれど、ペダルが軽く、スピードが出る。春の日を浴び、薫風を切って走るのは、気持ちがいい。やはり量販店のものよりいいし、お店の方も良くメンテナンスをしてくれる。

 でも思ったんですね。あと何年乗れるんだろうか?自転車の耐久年数ではなく、自分の年齢が追いつていくかという、寂しい話。あまり長く乗られないのなら、安い自転車でもよかったと、妻に言ったところ、「いいじゃないの、みじかくても最後はくらいは自分の気に入った自転車で楽しく走れれば!」う~む、確かにその通り。ものごとを、だんだんこういったように考えるようになったのは、やはり年なのか?????????????? これで中央~丘の上往復しますよ!

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2014年4月20日 (日)

眠った者の初穂 1コリント15:20-28

「しかし今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」1コリント15:20

主イエスキリストの復活、おめでとうございます。本日は、十字架に付けられて死に、墓に葬られたイエス様が蘇られたことを記念し、これを祝う復活祭です。なぜかイースターと呼ばれ、街のパン屋さんにもこの期間限定のカレーパンが売られていました。もちろん中にはカレーだけでなく、ゆで卵が入っており、おいしくいただきました。

ゆで卵は、殻を破ってヒヨコが出てくる様子を、暗い墓の中からよみがえったキリストの復活に重ねられているわけです。聖書の語る復活、よみがえりは、単に死人が生き返ることではありません。ましてお化けになったり、マイケルジャクソンの「スリラー」のように死体が動き出すことではありません。死んだ人が全く新しくされる、ということなのです。

しかしそれは信じがたいことであり、どのようなことかわかりにくいことでもあります。そこで主イエスは自ら墓からよみがえり、復活の初穂となってくださったのです。初穂は、これから豊かな実りが続くことを示し、収穫の希望となる一本の穂です。イエス様が蘇ってくださったことにより、私たちも同じように復活し、時間や空間に制限されない、新しいからだになるのです。復活されたイエス様には、十字架に付けられた釘の跡と、わき腹をさされた槍の跡がありました。しかしその傷はすでに癒され、乾いていたことでしょう。私たちの復活のからだは新しくされていますが、傷を負ったままかもしれません。しかしそれは、癒されているのです。主イエス様は、罪からの救い主であり、私たちを癒してくださる方だからです。

今年311日、東日本大震災の3周年目に、渋谷にある観世能楽堂にて、能と文楽が上演されました。能の演目は、「聖パウロの回心」、そして文楽は「Gospel in 文楽、イエスキリストの生涯」というものでした。聖書の物語を、日本の伝統文化の様式を用いて表現したものです。文楽を担当した豊竹英大夫(とよたけはなぶさだゆう)氏は、キリスト者です。キリストの赦しを体験し、主の復活を信じる信仰者です。豊竹氏は、医療ミスによって幼いお嬢さんを亡くされるというつらい経験をされました。しかしこの日のプログラムには、「復活の物語には、亡き娘への祈りが重なっている」とありました。最後の場面はイエスキリストの復活で、締めくくられていました。

おお大いなる過ぎ越し おお大いなる初穂の日

ハレルヤハレルヤ

イエスは死の闇を砕きてよみがえりたもう。

光の子らよ喜び歌わん 光の子らよ喜び歌わん 

ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ アーメン

 イエスキリストの復活の物語を、あなたの物語に重ね合わせることができます。どんなにつらく悲しい物語であっても、新しいストーリーとして、復活するのです。主イエスキリストのよみがえりは、そのあとに続く私たちの人生の初穂として、輝いているのです。

 

2014年4月13日 (日)

王を迎えよ マタイ21:1-11

本日は、主イエス様がロバの子に乗って都エルサレムはいられ、人々が棕櫚(シュロ)の葉を打ち振ってこれを迎えたことを紀念する、棕櫚の聖日となっています。棕櫚は勝利を象徴する植物です。夏の甲子園の応援歌の2番にも、棕櫚の葉を打ち振ることが詠まれています。

戦争に出ていった王が、勝利の凱旋行列をしながら都に戻ってくるとき、民衆は棕櫚の葉を打ち振って、われらの王様万歳、と叫んだことでしょう。この場合、王は軍馬や馬車に乗っていたのでしょうが、イエス様の場合は、荷物を運ぶ子ロバに乗っていたところが、この世の王様とは違っていました。イエス様は柔和な方であり、平和の王としてエルサレムに入られたことを象徴しています。

たしかに、イエス様は王としてお生まれになりました。イエス誕生の物語に描かれている通りです。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たち は、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」マタイ22

また、人々はイエスを無理やり王にしようとしたこともありました。

そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。ヨハネ16:15

十字架に付けられた時の罪状書きには「これはユダヤ人の王」とありました。新約聖書では、イエス様が王であるというのは、神の国、神のご支配の中での最高権威者である、という意味です。私たちの人生、神とともに生きる生活の中で、第一となっているお方なのです。このイエス様が都エルサレムに入られたことは、聖霊の宮である私たちの心に、イエス様を王としてお迎えすることを表しています。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。1コリント6:19

今でもイエス様は私たちの心の扉をたたき、一緒に親しく食事をしたいと願っておられます。一緒に楽しく食事をする相手というのは、ふつうは心を許せる人です。身分の偉い方で多少の緊張感はあっても、自分を招き、受け入れてくれている人となら、その食卓は祝福となります。都に入られたイエス様がまずなさったことは、神殿をきよめることでした。宮の中で不正を働いている人たちを追い出したのです。私たちも自分の不正を悔い改め、砕かれたやわらかい心をもって、王であるイエス様をお迎えし、親しい交わりを持たせていただきましょう。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。黙示3:20

2014年4月 9日 (水)

今日の一句

 昨日は、友人が19年前に山で亡くなった記念日でした。散り始めた桜を仰いで、こんな一句が生まれました。

天国に 発ちたる友や 花吹雪

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2014年4月 6日 (日)

終わりまで仕える マタイ20:20-28

教会歴では、来週は棕櫚の聖日、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入られ、多くの人たちが棕櫚の葉を打ち振ってこれを迎えたことを紀念する日です。

ご自分が受ける苦難が近いことを知ったイエス様は、エルサレムに入る前に、もう一度そのことを12弟子たちに告げられました。そして、苦難の道を進んでいかれました。その時、ヨハネとヤコブの母がイエス様のもとにやってきてひれ伏し、わが子を天のみ国において、イエス様の両脇の座につけてほしいと懇願したのです。このような光景は、今でも起きていることだと思います。母親としては、誰でも持っているわが子をかわいがる思いでしょう。

このことを聞いた他の弟子は、二人のことで腹を立てたとあります。弟子たちは、イエス様の最期が近づいているにもかかわらず、誰が偉いかなどと言って争うこともありました。親も、弟子たちもいったい何を考えているのか、と言いたくなる場面です。そのような時に、イエス様は改めて、人の上に立ちたいと思うものは、仕える者となりなさいと諭しました。そして、イエス様ご自身が、贖いの代価として死に渡され、人々を救うお方であることを示されました。自分を無にして仕える者としての姿がここにあります。そして、実際に苦しみを受け、十字架につけられて死に、墓に葬られたのです。イエス様の仕える者としての生涯は、変わることがありませんでした。

東京オリンピック誘致で使われた「おもてなし」という言葉が良く聞かれるようになりました。その心は、仕える心です。一過性のものではなく、自分の生涯をかけて貫く姿勢なのです。

ピリピ2:6-8 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えずご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

 

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