フォト
無料ブログはココログ

« 夕日 | トップページ | 新緑の上越ツアー »

2014年5月11日 (日)

神の家族として ヨハネ19:25-27

本日は、母の日です。教会歴にはない日取りですが、今では教会よりも一般社会の中で特別な日となっています。「養生訓」を持ち出すまでもなく、どの国においても母を大切にするということは、神様の御心にかなったことでしょう。

教会歴では、復活節第4週になります。聖霊降臨を待ち望む日々を過ごしています。聖霊こそ、教会を誕生させたお方でもあります。教会は時に「母なる教会」と言われ、一人のキリスト者が救われた教会を「母教会」というのも、うなずけます。

そして多くのキリスト者が理想の母とするのは、イエス様の母マリヤでしょう。イエスが十字架にはりつけられた時、その足元にいたのは男性の弟子たちではありませんでした。イエスの母マリヤをはじめとする、数名の女性たちでした。しかしそこに、ヨハネも一緒にたたずんでいました。イエスは、母に対してはヨハネをあなたの息子ですと言い、ヨハネに対してはマリヤのことをあなたの母ですと言われたのです。ちょっと不思議な言葉ですね。この時マリヤは、どのような思いで、イエスを見つめていたのでしょうか。また十字架から降ろされたイエスを、どのような思いでその腕に抱いたのでしょうか。はたしてマリヤは、わが子であるイエスを十字架に付けた人たちを許すことができたのでしょうか?

十字架から降ろされたイエスを抱くマリヤの姿は、ピエタとしていろいろな芸術家が描いています。今日でも、わが子を早くに失った親御さんの悲しみや悼みは、どんな慰めを拒むほどつらいものでしょう。痛みと悲しみを、ピエタから感じることができます。いつの時代にも、母は子供たちの喜びだけでなく、悲しみを負っています。イエスの母マリヤは、全人類の悲しみを負った姿です。三浦綾子氏の小説「母」を読んだとき、小林多喜二の母セキさんをそのような母の姿に描き、そこから読者の目を十字架のもとにいるマリヤに向かわせているように思いました。特高警察によって殺された多喜二の亡骸を抱くセキの姿が、北海道新聞に掲載されました(1933)。私にはこの写真が、十字架から降ろされたイエスを抱く母マリヤの姿のように感じられたのです。

ヨハネは、マリヤを引き取りました。ここに新しい家族の営みが始まったのです。肉の血筋によらない、神の家族としての営みを、ヨハネが始めたのです。ですから彼は、このように書くことができました。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ112,13)

この神の家族としての営みを、聖霊なる神様が作りだしてくださったのです。それが教会の交わりです。人の出自や国籍の違いは関係ありません。罪を悔い改め、イエス様を素直に信じる、神様によって新しく生まれさせてもらった人たちの交わりがそこにあるのです。その交わりは教会を越え、この社会の中でも広がっていくのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。エペソ2:19

« 夕日 | トップページ | 新緑の上越ツアー »

礼拝メッセージ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 神の家族として ヨハネ19:25-27:

« 夕日 | トップページ | 新緑の上越ツアー »