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2014年5月

2014年5月28日 (水)

市民講座の案内

今年度最初の市民文化講座が始まります。日時は7月30日(水)午前10時、会場はいつものふれあいキューブ6階の会議室5です。

今回のゲストは、大凧文化保存会会長の糸井さん。今年は二つの大凧が風に乗って見事に大空に舞い上がりました。私たちも、元気をもらいたいですね。

こちらをご覧ください→「2014NO.1.pdf」をダウンロード

2014年5月25日 (日)

神の愛の証し ヨハネ14:15-21

福祉の働き人として、訪問介護員と呼ばれる方があります。介護保険法において訪問介護を行う人のことで、通称ホームヘルパー、あるいはヘルパーさんと言われています。良いサービスだと思うのですが、現実には他人が自分の家に入ってくるのを嫌って、ヘルパーさんを拒む方や家庭があるそうです。それぞれに事情があるのでしょうね。

本日の聖書箇所は、弟子たちはイエス様をこの地上で見なくなる時が来るが、孤児にはしない。そのために、もう一人の助け主を遣わします、という約束をイエス様がされた場面です。この「助け主」とは英語でいえば、ヘルパーになります。しかしこの言葉は、「弁護者」「慰め主」とも訳されており、英語ではカウンセラーという訳の聖書もありました。そのもともとの意味は、「傍らに呼び寄せる者」ということです。

高齢者や病気の方だけでなく、いろいろな事情で一人ぼっちになってしまった子供のためには、文字通りそばにいて助けてくれる人が必要です。現在の社会では、親がいるのに養育を放棄して、社会的な子供の貧困が問題になっています。ヘルパーを拒むのも困ったことですが、自分の子供にさえ愛を注ぐことを拒む人が多くいる社会は異常だと思います。実は、生まれつきの人間には、他の人を愛する力も、自分を愛する力がありません。まずは親から愛を注いでもらわないと、生きていけないのです。いわば、人間は愛という燃料を入れないと動かない生き物なのですね。神様の愛は、親の愛よりも一方通行です。私たち人間が迷惑に感じるほど、神様の方から一方的に来るのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:10)

神様の愛をいただいて、初めて自分を愛することができ、そして他の人にも愛を注ぐことができるのです。愛という言葉を、「大切」と置き換えてもかまいません。イエス様は、ご自分が去っていくとき、その愛をもう一人の助け主に託しました。その方こそ、教会が誕生する時に天から与えられた聖霊であり、今日ではイエス様を信じるすべての人の内に住んでくださっているのです。この出来事は、聖霊降臨日として教会歴に記念されており、再来週にこのことを取り上げる予定です。

あなたは、この聖霊を受けていますか?イエス様の送ってくださるヘルパーさんを受け入れ、神様の愛に生かされる日々を送りたいものですね。

 

エペ 5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

2014年5月23日 (金)

ローズガーデン

 新緑が深まると、バラが咲き始めます。この辺りでは、その盛りが過ぎたようですが、丘の上に集っておられるOさんのローズガーデンを見せていただきました。こちらに来られてから約30年、その時から庭には色とりどりのバラが植えられています。接ぎ木をしたもの、鉢植えの物、バラだけでなく、ラベンダーやオレンジ、そしてぶどう棚もあります。白いおうちは、アーリーアメリカンを思わせる内装で、リビングルームからはその庭を眺めることができます。

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 しばしの時間、ご夫妻とともにお茶をいただきながら、親しいお交わりを持たせていただきました。バラの香りのように、お二人の人生の良き香りを分けていただいたように感じます。

2014年5月16日 (金)

わたしを信じなさい ヨハネ14:1-12

ご自分の最期が近いことを知っていたイエス様は、弟子たちと過ごした晩さんの席で、最も大切なことを語られました。それは今日の私たちにも語られている、主のメッセージです。一言でいえば、「主であるわたしを信じなさい」ということです。あまりにもわかりきったことです。しかし私たちは、本当に主を信じているでしょうか。どんなことが起ころうとも、イエス様を信じ続けることができるでしょうか。

だれでも、頼りにしていた人がいなくなると、不安になるものです。弟子たちにとって、イエス様が死んでこの世からいなくなってしまうことは、最も大きな不安の原因です。しかしイエス様は、弟子たちのために住まいを用意するために行くのであり、準備ができたら戻ってきて、彼らを迎えると言われました。この言葉を聞いた弟子たちは、一瞬思考が止まってしまったのではないでしょうか。この方は何を言われているのか、といぶかったかもしれません。トマスが「どこにいらっしゃるのか私たちにはわからない」と言ったのもうなずけます。またピリポが「父を見せてください。そうすれば信じます」と言った言葉も、復活後のイエス様に先のトマスが言った言葉と同じであり、不信仰に陥る私たちと同じではないでしょうか。

60年前に、火星の土地が売り出され、その地主になりませんかという募集があり、実際に応募してオーナーの証明書が発行されたという出来事がありました。火星に土地を持っていると考えただけで、楽しくなる話です。それよりもずっと前に、イエス様は私たちに天国の住居を用意してくださったのです。何と愉快なことではないでしょうか。

そして、イエス様のいない時には、もう一人の助け主である聖霊を遣わして、私たちを導いてくださると約束されたのです。このようなイエス様を、あなたは信じていますか。

信仰も、神様からの賜物です。聖霊が、その信仰を導いてくださいます。イエスを信じるとは、イエス様の歩まれた道を、私たちも歩くことです。

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。ガラテヤ516

 

2014年5月15日 (木)

新緑の上越ツアー

 今週12,13日の一泊二日で、私の故郷である上越に出掛けました。福祉委員会主催のミニ旅行で、今年はちょっと遠いのですが、皆さんの希望により越後の国へと向かいました。日本海が見たい!いい温泉に入りたい!へぎそばを食べたい!歴史に触れたい! などというわがままな(冗談)願いをすべてかなえるべく、私のネットワークを生かして、コースを考えました。宿泊は、妙高山のふもとおよそ1100メートルにある、ブナの森の一軒宿燕ロイヤルロッジ。芯から暖まる温泉と、体に優しくておいしいお料理が、一行を迎えてくれました。素晴らしい宿です!翌日の朝には、妙高の街並みに雲海がかかり、ほっと癒される光景を見ることができました。初日は、高田公園、カトリック高田教会、髙橋飴屋を回り、翌日は日本スキー発祥記念館(金谷山)、春日山(上杉謙信公の居城)、魚勢で昼食とお買い物、そして日本海を見て十日町でへぎそばをたらふく食べて、帰ってまいりました。

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 夜の親睦会では、一人一人の物語を聞き、Tさんのフルート演奏と家内の腹話術が場を盛り上げました。朝食時には、本当に久しぶりに高田高校歌と高田の四季を歌い、私にとっても楽しい時でした。Tさんの大学の先輩で上越市清里地区にある「星のふるさと館」で指導員をされているHさんが来られました。なんと、その方は高校と大学にわたって私の先輩であることがわかり、びっくり!また一人知り合いが増えました。下はその方の田んぼと妙高山の写真です。山に黒く雪解けの場所が、春を告げる「はね馬」のかたちをしているのがわかりますか?

 故郷を離れてから、実はぐっと身近になってきたように感じます。

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2014年5月11日 (日)

神の家族として ヨハネ19:25-27

本日は、母の日です。教会歴にはない日取りですが、今では教会よりも一般社会の中で特別な日となっています。「養生訓」を持ち出すまでもなく、どの国においても母を大切にするということは、神様の御心にかなったことでしょう。

教会歴では、復活節第4週になります。聖霊降臨を待ち望む日々を過ごしています。聖霊こそ、教会を誕生させたお方でもあります。教会は時に「母なる教会」と言われ、一人のキリスト者が救われた教会を「母教会」というのも、うなずけます。

そして多くのキリスト者が理想の母とするのは、イエス様の母マリヤでしょう。イエスが十字架にはりつけられた時、その足元にいたのは男性の弟子たちではありませんでした。イエスの母マリヤをはじめとする、数名の女性たちでした。しかしそこに、ヨハネも一緒にたたずんでいました。イエスは、母に対してはヨハネをあなたの息子ですと言い、ヨハネに対してはマリヤのことをあなたの母ですと言われたのです。ちょっと不思議な言葉ですね。この時マリヤは、どのような思いで、イエスを見つめていたのでしょうか。また十字架から降ろされたイエスを、どのような思いでその腕に抱いたのでしょうか。はたしてマリヤは、わが子であるイエスを十字架に付けた人たちを許すことができたのでしょうか?

十字架から降ろされたイエスを抱くマリヤの姿は、ピエタとしていろいろな芸術家が描いています。今日でも、わが子を早くに失った親御さんの悲しみや悼みは、どんな慰めを拒むほどつらいものでしょう。痛みと悲しみを、ピエタから感じることができます。いつの時代にも、母は子供たちの喜びだけでなく、悲しみを負っています。イエスの母マリヤは、全人類の悲しみを負った姿です。三浦綾子氏の小説「母」を読んだとき、小林多喜二の母セキさんをそのような母の姿に描き、そこから読者の目を十字架のもとにいるマリヤに向かわせているように思いました。特高警察によって殺された多喜二の亡骸を抱くセキの姿が、北海道新聞に掲載されました(1933)。私にはこの写真が、十字架から降ろされたイエスを抱く母マリヤの姿のように感じられたのです。

ヨハネは、マリヤを引き取りました。ここに新しい家族の営みが始まったのです。肉の血筋によらない、神の家族としての営みを、ヨハネが始めたのです。ですから彼は、このように書くことができました。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ112,13)

この神の家族としての営みを、聖霊なる神様が作りだしてくださったのです。それが教会の交わりです。人の出自や国籍の違いは関係ありません。罪を悔い改め、イエス様を素直に信じる、神様によって新しく生まれさせてもらった人たちの交わりがそこにあるのです。その交わりは教会を越え、この社会の中でも広がっていくのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。エペソ2:19

2014年5月10日 (土)

夕日

 新しい自転車での、中央―丘の上出勤(?)

野田線を越えて、S秀幼稚園に行くまでは、田んぼと畑が広がっています。豊春地区には、緑の杜があります。昨日は、こんな夕方の風景に出会えました。

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2014年5月 5日 (月)

大凧あげ祭り

 5月5日、はじめて江戸川河川敷で行われる、大凧あげ祭りを見に行きました。驚くほど大勢の人で、マラソン大会とはまた違った雰囲気。小凧があがり、いよいよ待ちに待った大凧があがる。しかしあいにくの微風。凧が高く上がるには、凧の出来と、風と、そして100人を超える引手が一つになっているという、この三つがそろわないといけないそうです。大きさは、縦15メートル、横11メートル、100畳の大きさということです。重さは800キロ!凧がはこばれていくとき、お客さんからは「こんなおおきいの、本当にあがるの?」という声が上がるほど。

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 弱い風の中でも小凧が思いのほか上がった後、いよいよ大凧の登場。上若組による「景気」が、一瞬の強い風を受けて舞い上がり、引手の息の合ったダッシュに、ゆっくりと大空に浮き上がりました。周りからは、大きな歓声。いや~、「凧が揚がる」というだけなのに、なぜか感動しますね!

 今年は、この凧を再利用して、小さな縁起凧や桐を練りこんだ祝儀袋、ポチ袋などが作られるそうです。初めての見学でしたが、なんとも晴れやかな気持ちで家路につきました。次回の市民講座では、ぜひ保存会の方をゲストにお迎えしたいですね。

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2014年5月 4日 (日)

途上 ルカ24:13-35

主イエス様がよみがえられ、マリヤとほかの女性たち、そしてトマス不在の弟子たちに姿を現した日に、エマオ途上にある二人の弟子にもその姿を現されました。にわかには信じがたいことですが、このような出来事をとおして、復活の主イエスは全く新しいからだになっていたことがわかります。

二人は、イエス様こそイスラエルを復興してくださる方だと望みを掛けていたのですが、十字架で処刑されて死んでしまったので、失意と落胆の底に突き落とされていたのです。自分たちに近寄り、一緒に歩いている方がイエス様だとわからずにいたので、彼らは暗い顔つきになってしまいました。だれでも望みを失った時、このような気持ちになり、顔だけでなく体全体から力が失われていくのを感じることでしょう。

二人はエルサレムで起こった出来事を、話しました。イエス様は二人の不信仰を嘆かれ、「ああ心の鈍い人たち」とつぶやかざるを得ませんでした。そしてモーセや預言者たちの話から始まり、ご自分のことを聖書の中から解き明かされました。日も傾いてきたので、二人はイエス様を宿に引き止めました。そして食卓でイエス様が感謝の祈りをささげたそのとき、彼らは自分たちとともに歩き、今ここにいる方がイエス様だとわかったのです!彼らの信仰の目が開かれたのです。とその瞬間、主は見えなくなりました。見えなくなって、見えたのです。そしてイエス様がいろいろ語ってくださった時のことを思い起こしたとき、心は熱く燃え立っていくのを感じたのです。

失意の中にある彼らの心を燃え立たせたのは、主のみ言葉でした。復活のキリストがともにおられるとは、神様のみ言葉があなたの心にあることです。絶望の淵から私たちを再び希望へと引き上げるのは、主イエス様がともにいてくださるということです。肉眼でイエス様が見えたり、夢の中に現れたりする必要はありません。必要なのは、主のみ言葉を心に聞き、そこにある神様の御心を悟ることです。復活の主が、あなたの人生という途上で、ともに歩いてくださるのです。

みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

詩篇119130

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