フォト
無料ブログはココログ

« 創造の秩序に戻れ 創世記1:24-31 | トップページ | 平和の祈り  »

2014年6月22日 (日)

父なる神に従う道 創世記12:1-6

創世記に登場する人物で、もっともよく知られているのは、アブラハムでしょう。アブラハムは民族の父であるだけでなく、キリスト者にとっても霊的な父と言える人物です。まさに、信仰の父でもあったわけです。

創世記15章は、まだアブラムと呼ばれていた時に、アブラムが神を信じることによって義と認められた物語です。ローマ4:3では「信仰義認」のもととなる出来事として、記されています。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。満天の星空のもとで、神は子供のいなかったアブラムに、彼の子供が与えれ、天の星のように増え広がると言われたのです。神様は、このようなご自分の造られた世界のただなかで、語ってくださることがあるのですね。アブラムはこの言葉を信じ、それが神の様の前に義と認められたのでした。そののち彼の名は、多くの国民の父という意味のアブラハム、に名を変えられることになります。

しかし彼の信仰は、神様の厳しい試験、試練、試みを受けなければなりませんでした。創世記22章の出来事です。妻のサラから与えられた一人息子のイサクを生贄として、神様に差し出すことでした。これも、神様からの語りかけによることでした。神様に言葉を掛けられた翌朝、イサクに薪を背負わせ、従者とともにモリヤの山に向かいました。そして山に着くと、祭壇を作り、薪を敷いて、縛ったイサクをその上に置き、刀を抜いて彼を屠ろうとしたのです。いかに神様に従うとはいえ、この行為は普通ではありえないことです。信仰による狂気、といってもいいことです。しかし刀が振り下ろされようとしたその時、神様からの声がかかり、イサクは一命をとりとめました。藪に角をはさまれていた雄羊がいたので、それをささげたのでした。新約聖書に見る、イエスキリストの十字架の出来事を思い起こさせます。この行為は、どこまでも父なる神に従うアブラハムの姿勢の表れだったのです。ヤコブ2:22「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。」これは、神に義と認められるのは、行いの伴う信仰によることを示しているみ言葉です。私たちは、このような大きな試練、テストに会うことはあまりないでしょう。むしろ日常の生活の中で、小さな出来事を通して、神様に従う者であるかが試されているのです。

神様に従う道は、自分の力では全うすることができません。私たちの主イエス様が、十字架で苦しみを受けるという最も悲惨な試みの中でも父なる神様にお従いできたのは、創造の秩序を受け入れ、それに従うお方だったからです。

1コリント15:28 

しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。


« 創造の秩序に戻れ 創世記1:24-31 | トップページ | 平和の祈り  »

礼拝メッセージ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 父なる神に従う道 創世記12:1-6:

« 創造の秩序に戻れ 創世記1:24-31 | トップページ | 平和の祈り  »