フォト
無料ブログはココログ

« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »

2014年6月

2014年6月29日 (日)

平和の祈り 

 本日は、気仙沼聖書バプテスト教会での、礼拝のため、「平和の祈り」をアップいたします。

アッシジのフランシスの平和の祈り

 

ああ 主よ

私をあなたの平和の道具としてお使いください

憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに赦しを

分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を

誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を

悲しみのあるところに喜びを、もたらす者としてください

慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを

愛されるよりは愛することを、私が求めますように

私たちは与えるから受け、赦すから赦され、

自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから

アーメン

2014年6月22日 (日)

父なる神に従う道 創世記12:1-6

創世記に登場する人物で、もっともよく知られているのは、アブラハムでしょう。アブラハムは民族の父であるだけでなく、キリスト者にとっても霊的な父と言える人物です。まさに、信仰の父でもあったわけです。

創世記15章は、まだアブラムと呼ばれていた時に、アブラムが神を信じることによって義と認められた物語です。ローマ4:3では「信仰義認」のもととなる出来事として、記されています。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。満天の星空のもとで、神は子供のいなかったアブラムに、彼の子供が与えれ、天の星のように増え広がると言われたのです。神様は、このようなご自分の造られた世界のただなかで、語ってくださることがあるのですね。アブラムはこの言葉を信じ、それが神の様の前に義と認められたのでした。そののち彼の名は、多くの国民の父という意味のアブラハム、に名を変えられることになります。

しかし彼の信仰は、神様の厳しい試験、試練、試みを受けなければなりませんでした。創世記22章の出来事です。妻のサラから与えられた一人息子のイサクを生贄として、神様に差し出すことでした。これも、神様からの語りかけによることでした。神様に言葉を掛けられた翌朝、イサクに薪を背負わせ、従者とともにモリヤの山に向かいました。そして山に着くと、祭壇を作り、薪を敷いて、縛ったイサクをその上に置き、刀を抜いて彼を屠ろうとしたのです。いかに神様に従うとはいえ、この行為は普通ではありえないことです。信仰による狂気、といってもいいことです。しかし刀が振り下ろされようとしたその時、神様からの声がかかり、イサクは一命をとりとめました。藪に角をはさまれていた雄羊がいたので、それをささげたのでした。新約聖書に見る、イエスキリストの十字架の出来事を思い起こさせます。この行為は、どこまでも父なる神に従うアブラハムの姿勢の表れだったのです。ヤコブ2:22「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。」これは、神に義と認められるのは、行いの伴う信仰によることを示しているみ言葉です。私たちは、このような大きな試練、テストに会うことはあまりないでしょう。むしろ日常の生活の中で、小さな出来事を通して、神様に従う者であるかが試されているのです。

神様に従う道は、自分の力では全うすることができません。私たちの主イエス様が、十字架で苦しみを受けるという最も悲惨な試みの中でも父なる神様にお従いできたのは、創造の秩序を受け入れ、それに従うお方だったからです。

1コリント15:28 

しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。


2014年6月15日 (日)

創造の秩序に戻れ 創世記1:24-31

 

「初めに神が天と地を創造した」

 この創世記11節は、宇宙の成り立ち、人間の営みなど、あらゆることを解き明かす究極の方程式と言っていいと思います。この方程式、すなわち神の言葉の中に、神様によって造られたこの世界の謎を解く答えがあるのです。まあ、これは理系の私の考え方かもしれませんが。
 2節は、新改訳聖書第3版では「地は茫漠として何もなかった」となっており、今までの訳とは違っています。他の聖書の訳とも違う、新しい訳となっています。この解説を見ますと「『茫漠として』は,地の状態が『荒地』であったと言っているのではありません。本来ならばそこに草木が生え,動物がいて,人間が住んでいるはずの地が,荒涼としてとりとめもなく広大な『荒地のような』状態であると宣言しているのです。」とありました。神様の言葉によって、地に作物が豊かに実るようになったというイメージです。
 1章には、「種類に従って」「区別する」「名づける」という言葉が複数回使われています。これらは、神によって造られた世界にはルール、あるいは法則、秩序があるということを示しています。混沌(カオス)から、秩序(コスモス)の世界へとなったというイメージです。
 そして人間は、その世界を「支配」するように命じられます。創世記が書かれたとき、周辺にはそれぞれの国を治める人たちがいました。サムエル記、列王記には、いろいろな王が登場して、国を治める様子が描かれています。その多くは、自分の力によって治める支配者です。新約聖書になると、イエス様の語る支配者とは、人に仕える者であることがわかります。聖書全体から創世記のこの言葉を見ると、人間は神に仕える者として、神様の造られた世界を治めることが任されているのです。ここを間違えてはいけません。人間は創造の秩序を無視して、自分の力で自然界を支配してはいけないのです。
 しかしいつからか、人間は創造主を忘れ、時には反逆し、自分の力でこの世界や社会を支配しようとしてきました。そこに禍が起こり、人間も不幸になってしまったのです。3年前に大きな震災、津波、そして原発事故を体験したこの国は、神様に造られた創造の秩序を忘れてしまっていたのではないでしょうか。聖書の語る秩序に立ち返り、謙遜になってそれに従うことが、求められているのです。管理人がオーナーに信頼されてその管理を任されているように、私たちは神様からこの世界の管理を、そして神様の素晴らしい秩序を任されているのです。
 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
 1コリント4:1

2014年6月 8日 (日)

教会の誕生 使徒2:40-47

本日は、教会歴では聖霊降臨日となっています。エルサレムで、祈りつつ集まっていた弟子たちに聖霊が降り、ペテロの説教で悔い改めてイエス様を信じバプテスマを受けた人たち3000人が、彼らの交わりに加えられたのです。ここに、キリストの教会が誕生したのです。その日を記念した日となっているわけです。

この日は、元はユダヤの祭りである、五旬節(ペンテコステ)と呼ばれる日でした。他国にいた大勢のユダヤ人が、自分たちの先祖の地であるエルサレムに集まっていました。彼らは、聖霊に満たされた弟子たちが、いろいろな国の言葉で語るのを聞いて、驚き当惑し、酒に酔っているのではないかとあざける人たちもいました。弟子たちは、神の国ことを語っていたのではないでしょうか。バベルの塔のできごとは、人間の言葉が通じなくなり、地の全面に散らされてしまったという物語でした。しかしここでは、違う国の言葉でありながら、聖霊によって一つとされる出来事です。

この人たちの交わりの様子が描かれているのが、本日のテキストです。み言葉を受け入れた人たちは救われ、信仰の証しとして水のバプテスマ(洗礼)を受け、教会の交わりに加えられたのです。彼らは、み言葉(聖書)祈りを中心とした生活に変えられ、互いに分かちあい(献金)救わる人たちが日々加えられていきました。パンを裂く、という言葉は今日の聖餐式にあたるもので、彼らはいつも主イエス様の十字架と復活を思い起こしていたことでしょう。

教会の誕生を見ると、それは人手によるのではなく、聖霊のお働きであることがわかります。イエス様が尊い血の代価を払って、人を罪から救い、教会という交わりに加えてくださったのです。聖霊は、人を新しく生まれさせるだけでなく、この世に教会を誕生させる力となったのでした。日本の宣教史において、教会は教育、福祉、女子の地位の向上などの分野で、良い影響を与えてきました。

今のこの時代における、教会の使命は何でしょうか?イエス様が宣べ伝えた和解の福音、平和の福音を教会の置かれている地域の中で、証しすることだと思います。なによりも、信者たちの生活の中で、和解と平和が見られなくてはいけません。苦しい現実のただなかに、私たちを助けてくださる聖霊が遣わされており、主イエス様がいてくださるのです。その方に望みを置いて生きることが、聖霊に満たされた生涯なのです。

この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

エペソ3:5,6

2014年6月 1日 (日)

父の約束を待つ 使徒1:1-11

十字架に付けられ、死んで葬られたイエス様はよみがえられ、40日の間弟子たちに復活の姿を現されました。その後、弟子たちを連れてオリーブ山に登り、彼らの見ている目の前で昇天された様子が、ここに記されています。

イエス様は苦しみを受ける前に、弟子たちと一緒におられました。4節の言葉は、「食事を共にしている」と訳すことができる言葉です。十字架に付けられる直前、食事をしながらご自分の苦難について弟子たちに親しく話された、というのです。これが過越しの食事、最後の晩餐と呼ばれるようになった場面だと思います。

イエス様を地上で失っても、弟子たちはともに集い、祈りと賛美をささげていました。そこには、食卓を囲む交わりがあったことでしょう。このように集っていた弟子たちに、約束の聖霊が降り、彼らは他国の言葉で神様の御業を語り出したのです。その後、悔い改めてイエスを信じ、新たに洗礼を受ける人が起こされました。ここに教会が生まれたのです。教会に集った人たちの様子が使徒2章の後半に書かれていますが、集った人々には、食事とともに、パンを裂くという言葉で表現される交わりがありました。

物を食べるということは、命をいただくことです。世界文化遺産に登録された和食は、おいしくご飯をいただく日本の伝統的な食事を表す、シンボリックな言葉だそうです。ご飯と漬物があり、お汁とおかず()がついていて、それを箸でいただく、これが和食のスタイルです。日本人は、旬という言葉を使います。どの国でも、旬の食材はうまいのですが、日本ではその味わい方が複雑というか、深いものがあります。特に少し早目にいただく初物、すなわちはやりものは、人を生かすエネルギー、力、元気を自らに取り入れるという意味合いがあります。初物を食べると75日寿命が延びる、などと言われています。

食事の時、お祈りをします。食卓にイエス様をお呼びして、感謝とともに祝福を願うのです。イエス様の命に与るという願いでしょう。そしてこのことの象徴的な営みがパン裂きで、今日では聖餐式として守られています。イエス様が、私たちを主の食卓に招いてくださっているのです。初物ならぬ、初穂としてのイエス様が、私たちの力そのものとなってくださっているのです。

イエス様の昇天は、イエス様との目に見えないけれど霊的な交わりが始まったことを表す出来事なのです。天に挙げられたイエス様は、今信じる者の心の中にいてくださり、私たちに神様の元気、いのちを与えてくださっているのです。聖霊に満たされるとは、ご飯をおいしくいただいて心も体も満たされて活力が出るように、イエス様の命に生かされることなのです。

来週の聖霊降臨日をともに待ち望んで、今日もしっかりと、イエス様をいただきましょう。

« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »