フォト
無料ブログはココログ

« 平和の祈り  | トップページ | 主なる神を求める時 創世記28:16-22 »

2014年7月 6日 (日)

己を義とせず   ヤコブ2:20-26

戦国武将の一人、上杉謙信は、その旗印の一つに「第一義」を掲げました。自国の領土を広げるのではなく、苦境にある国とその民を助けるために戦った人でした。苦しんでいる人を助けることが、謙信の義だったのでしょう。

聖書には、人は信仰によって義と認められる、とあります。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ローマ1:17)

その例証として、パウロはアブラハムを上げます。創世記15:6にあるように、彼は満天の星空のもとに呼び出され、神様から子孫繁栄の約束を与えられ、その約束を信じたのでした。しかしヤコブは、同じアブラハムを例に引きながら、行いによって義と認められると言いました。

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。」(ヤコブ2:21)

 パウロとヤコブは、互いに異なることを言ったのでしょうか。そうではありません。ヤコブは、信仰は行いによって全うされることを、明らかにしているのです。人の心のうちにあることは、行動によって外に表されるのと似ていますね。ドイツの聖書学者であるシュラッターは、この箇所を次のように説明しています。「人は行いを偽り、不信仰な意味で教え、行うこともありうる。また人は信仰を偽って語り、悪い心で信仰を持つこともありうる。このような危険は、教会にいつもつきものである。私たちには、そのような危険に陥らないために、ヤコブが与えられているのである」(新約聖書講解、p57)

信仰も、行いも、ちょうど貨幣の表裏のように切り離すことはできず、この二つがセットになっているのです。そして大切なことは、信仰によるにせよ、行いによるにせよ、神が人を義と認めてくださるということです。主体は、あくまでも、創造主であり父である、神様なのです。自分で自らの信仰や行いを誇って、「俺は正しい人間だ!」と言うことではないのです。

現代人の病理の原因の一つは、その自己中心性にある、とある精神科医は言われました。かたくなで病んでいることすら認めず、人を傷つけながら自分が傷つくことを恐れて大騒ぎをする。それは、己を義とする姿です。アブラハムも、過ちを犯しました。弱さを持っていたのです。自らの弱さを認め、砕かれ、神によって義と認められる中に、信仰の裏づけられた行いが生まれるのです。

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)


« 平和の祈り  | トップページ | 主なる神を求める時 創世記28:16-22 »

礼拝メッセージ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 己を義とせず   ヤコブ2:20-26:

« 平和の祈り  | トップページ | 主なる神を求める時 創世記28:16-22 »