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2014年7月

2014年7月27日 (日)

むくげの花

 本日は、武里チャペルでの説教です。丘の上には、むくげの花が咲いています。前のお宅には、底に赤い色の入った宗旦むくげが咲いています。むくげは、アオイ科の落葉低木で、夏から秋にかけて白、紫、赤などのきれいな花をつけます。季語は秋らしいのですが、夏の茶花として欠かせない花です。特に真っ白なむくげは、見ているだけですーっとさわやかな気持ちになります。時には、こちらがじっと見られているように感じる、不思議な花です。

 むくげは、大韓民国の国花ともなっています。また8月15日がやってきます。私たちの心に、世界に、平和の花を本当に咲かせたい、違いを認めて一つになりたいと願わされます。
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2014年7月20日 (日)

恵みは千代に  出エジプト34:1-10

聖書を題材にした映画の中で、一番印象に残っているのは、「十戒」です。子供のころに、満員の館内で立ちながら見た紅海が二つに割れてイスラエルの民が大滝のようになった二つの壁の間を渡り、エジプトの戦車などが呑み込まれてしまうシーンは、圧巻でした。

「十戒」とは、モーセが神様から授かった十の律法(戒め)のことで、出エジプト20章に書かれています。聖書では「十のことば」という表現で、この戒めをもとにして、神様は人間に守るべき律法を授けました。モーセがこの律法を山で受けている間、イスラエルの民は彼の帰りを待っていたのですが、あまりにも手間取っていると感じ、民の持っている金銀の飾りを集めて金の子牛を作りました。民は子牛を新しい神として拝み、彼らを導いてくださった神様から離れてしまったのです。山を下りたモーセはこの様子に怒り、そして失望し、十の戒が書かれた板を砕いてしまうのです。その後再び神様の召しによって新しい石の板にこの戒めを刻み、民に対する神様の約束を語りました。その中心となる言葉が、

「主はあわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代に保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」(34:6,7)です。

宗教は戦争や貧困を引き起こすから悪である、とはよく聞く言葉です。確かにこの世界には、宗教戦争があり、それぞれの神の名の下で争いがあります。しかし宗教や、信仰がこれらの問題の根本原因ではありません。戦争や貧困には、政治的な理由、気候や風土、それぞれの民族の歴史など様々な要因がかかわっています。しかし人間は、神、真理、愛や自由と言った言葉を乱用し、自分たちの欲望を満たそうとする本性を持っているのです。これこそが、争いの原因でしょう。

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。(ヤコブ4:1,2)

もともと律法は、民の幸福のために与えられたものです。しかしある種の原理主義に陥ると、これとは全く反対のことが起きるのです。律法は、私たちをイエス様のもとに導く養育係だと、聖書は語っています(ガラテヤ3:24)。そしてイエス様は、この律法を完成してくださる方として、来てくださいました(マタイ5:17)。文字に縛られるのではなく、神様のあわれみに導かれることの祝福を、示してくださったのです。味方を愛することよりも敵をも赦す愛、供え物をするよりも両親を敬う心の大切さ、安息日のおきてを文字通り行うよりも命を優先する行動、このようなことをイエス様は人々に語り、自ら実行されたのです。

古い戒めの書かれた石を打ちこわし、新しくされたあなたの心の板に、イエス様の言葉を刻んで新しい週も歩んでいきましょう。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:16,17) 

 

2014年7月13日 (日)

主なる神を求める時 創世記28:16-22

時代劇で2万回斬られた男・福本清三さんが主演する渋い映画が封切られました。タイトルは「太秦ライムライト」。チャプリンのライムライトがベースになっているのですが、「どこかで誰かが見ていてくれる」という本が原作のようです。大部屋俳優である福本さんの演技に注目する人はふつういないのですが、そんな役を精いっぱいこなしていった福本さんの自伝的著書です。ある時この本を読んで、マタイの福音書にあるように、私たちの神様は隠れたところで見ていてくださるお方であることを感じました。

アブラハムの孫にあたるヤコブは、双子の兄弟の弟として生まれました。しかし、彼は兄を出し抜いて長男の権利と祝福を奪い取ってしまいます。やがて兄エサウの怒りを感じて彼は家を出ます。本日のテキストは、あるところで野宿をしたとき、天使たちが天にまで届くように立てられていたはしごを上り下りしている夢を見た、という不思議な物語です。この場面は、「ヤコブのはしご」というゴスペルにもなっているそうです。

興味を引くのは、彼がこの夢を見て目覚めた時に言った言葉です。「まことに主がこの所におられるに、私はそれを知らなかった。この場所は、なんとおそれ(畏れ)多いことだろう。」彼は神を信じる家庭に生まれましたから、神様のことは聞かされていたはずです。信じてもいたでしょう。しかしこの夢を見たとき、彼は自覚的に神様がおられることを知り、そしておそれ、枕として敷いていた石を取ってそれを立て、この出来事の記念としたのです。さらに、神様から賜る物の十分の一を捧げるという請願まで立てるのです。もとより、十分の一どころか、全ては神様からきています。これは彼の献身の決意表明です。ヤコブにとって、神が生きておられることを知った、最初の体験でしょう。

天地を造られた神様は、私たち一人一人のことを心にかけておられるのです。そして私たちの行くところどこにでも、共にいてくださる方なのです。こちらは気づいていなくても、まるでかくれんぼで隠れている子供が鬼をしっかり見ているように、神様は絶えず私たちを見てくださっているのです。それは、順風満帆な時だけではありません。どんなひどい状況や病の床にあっても、仕事や勉強に励んでいる時でも、大恋愛中であっても、神様はそこにいてくださるのです。そのことに、あなたは気付いているでしょうか。極端に言えば、たとい罪の中に落ちたとしても、なお神様はともにいてくださるのです。その置かれたところで主なる神を求める者に、神は次の三引を示してくださるのです。

ホセア10:12 「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。」


2014年7月 6日 (日)

己を義とせず   ヤコブ2:20-26

戦国武将の一人、上杉謙信は、その旗印の一つに「第一義」を掲げました。自国の領土を広げるのではなく、苦境にある国とその民を助けるために戦った人でした。苦しんでいる人を助けることが、謙信の義だったのでしょう。

聖書には、人は信仰によって義と認められる、とあります。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ローマ1:17)

その例証として、パウロはアブラハムを上げます。創世記15:6にあるように、彼は満天の星空のもとに呼び出され、神様から子孫繁栄の約束を与えられ、その約束を信じたのでした。しかしヤコブは、同じアブラハムを例に引きながら、行いによって義と認められると言いました。

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。」(ヤコブ2:21)

 パウロとヤコブは、互いに異なることを言ったのでしょうか。そうではありません。ヤコブは、信仰は行いによって全うされることを、明らかにしているのです。人の心のうちにあることは、行動によって外に表されるのと似ていますね。ドイツの聖書学者であるシュラッターは、この箇所を次のように説明しています。「人は行いを偽り、不信仰な意味で教え、行うこともありうる。また人は信仰を偽って語り、悪い心で信仰を持つこともありうる。このような危険は、教会にいつもつきものである。私たちには、そのような危険に陥らないために、ヤコブが与えられているのである」(新約聖書講解、p57)

信仰も、行いも、ちょうど貨幣の表裏のように切り離すことはできず、この二つがセットになっているのです。そして大切なことは、信仰によるにせよ、行いによるにせよ、神が人を義と認めてくださるということです。主体は、あくまでも、創造主であり父である、神様なのです。自分で自らの信仰や行いを誇って、「俺は正しい人間だ!」と言うことではないのです。

現代人の病理の原因の一つは、その自己中心性にある、とある精神科医は言われました。かたくなで病んでいることすら認めず、人を傷つけながら自分が傷つくことを恐れて大騒ぎをする。それは、己を義とする姿です。アブラハムも、過ちを犯しました。弱さを持っていたのです。自らの弱さを認め、砕かれ、神によって義と認められる中に、信仰の裏づけられた行いが生まれるのです。

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)


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