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2014年8月

2014年8月31日 (日)

砕かれてこそ生きる 士師記7:15-23

ヨシュアに続く時代は、士師の時代と言われています。士師とはイスラエルの民を教えて導くリーダーのことで、ヘブル語の意味は「審判者」です。この時代の特徴は、士師21:25にあるように「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」ことでした。いわば、それぞれが自分勝手に良いと思うことをしていた、とも取れるみ言葉です。

そのような時代に、ミディアン人の圧迫を受けていたイスラエルの民を救ったのが、ギデオンという人物でした。ミディアン人は大軍を持っていましたが、彼はわずか300名の兵士でこれを打ち破った人物、いわば、旧約聖書の勇士の一人として描かれています。これは信仰の戦いであり、聖書を無料で配布する世界的な団体であるギデオン聖書協会の名は、ここから取られています。

彼がミディアン人との戦いに勝利できたのには、3つの秘訣があったと思います。第1に、ギデオンは、異教の神々を礼拝することなく、主なる神に仕え、この神様への礼拝を欠かしませんでした(士師6:24)。私たちもまず、神様を礼拝することを第1とした生活を送る必要があります。そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

次には、イスラエルの兵士は3万人いたのですが、実際に戦いに参加したのは300人でした。勝利のために必要なのは大軍ではなく、ギデオンと心を一つにできる兵士でした。少人数でも、霊的な備えをしている人を神様は用いられます。

3つ目は、彼らのとった戦術です。300人が3隊に分かれて、それぞれが右手に剣を持ち、左手に松明をもって、「主のつるぎ、ギデオンの剣だ“!」と大声で鬨の声を上げたことです。この時、松明は壺に入れて隠してあったのですが、それを一斉に割ることによって光を放ち、ミディアン人からは多くの軍勢が闇夜に乗じて襲ってくるように錯覚してしまったのでしょう。同士討ちをはじめ、軍勢は混乱し、逃げ出したのです。そこを他の兵士たちが襲い、彼らをヨルダン川の向こう側まで追撃していったのです。

松明を入れてあった壺を打ち割ったことは、私たちの殻が砕かれたときに、何が出てくるかを示す象徴的な出来事です。自分の殻が破られるとき、本当の自分の姿が出てくるでしょう。それはみじめな、けがれた自分でしょうか?確かにそうでありましょう。しかしイエス様を信じる者は、自分という土の器の中に、実は素晴らしい宝物を入れているのです。その方は、真の光です。自分という殻が打ち破られるとき、初めてこの光は輝き出し、信仰の戦いに勝利する道が開かれていくのです。

「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。2コリント4:6,7

 

2014年8月24日 (日)

戦艦大和ノ最期

ふとしたことから吉田満氏の「戦艦大和ノ最期」を読みました。関連して、氏の全集にも目を通すことができ、今年の敗戦記念礼拝を迎える一つの備えとなりました。

吉田氏は、太平洋戦争末期、当時浮沈艦と言われた「大和」の乗組員として特攻作戦に参加しましたが、九死に一生を得て敗戦を迎え、後にキリスト者となった人です。23歳でした。

この作品は、疎開先で彼の話を聞いた作家吉川英治が、これを文章にして残さなければならないと強く勧めたことによるものです。出版の前に幾人かの人たちがこの原稿を回し読みしたそうで、その中にカトリックの神父がおられ、その方の導きでカトリック信者となりました。しかし婚約中の婦人がプロテスタントの信者であったため、後にプロテスタントに改宗します。これには、多くの苦しみがあったことでしょう。吉田氏は、日本基督教団議長として教団の戦争責任をまとめた鈴木正久牧師の下で長老として奉仕されました。鈴木師の召天後も、自らの戦争責任を問いつつ、戦中派の人間として平和のために尽くした人でした。戦後は、日本銀行に勤務する傍ら、執筆活動をなさっておられます。

吉田氏は1979年に召され、葬儀は東洋英和女学院で行われました。また夫人の嘉子さんは2009年に召され、お二人が属していた西片町教会で葬儀が行われたのでした。

敗戦記念礼拝を過ごし、今も残っている言葉を著作から引用させていただき、私の思いといたします。

「平和の問題」より

信仰者としてこの問題(平和の問題)に立ち向かう以上は、単に賢く目先が利くということだけでは済まされない。まず第一に、平和の問題をひとごとではなく、本当に自分自身の課題として、追い求め、つねに自分として精いっぱいの姿勢を持ち続けるだけの用意が、なければならない。・・・第二は、“平和”への歩みを、はげしい愛によって貫かねばならない。

「平和に生きる」より

 

(マタイ5:9を引用した後で)つくり出されるもの、それが平和である。どのようにして、平和はつくり出されるか。それは、私どもが、身辺の生活のすみずみにおいて、自分の血の通った生活の場において、そこにある無数の憎しみと利己心の唯中で、自分を超えようとたたかうこと、その中から生まれてくるのではないか。家、肉親、友人、隣人、社会、この世界、そして何よりも自分自身との戦いの中で、愛と絶えざる忍耐と、勇気と持てる限りの賢さをもって、偽りの力の均衡ではなくて心底私どもを結びつけ合う一致を求めることが、平和への道なのではなかろうか。

2014年8月17日 (日)

我と我が家は主に仕えん  ヨシュア24:14-18

旧約聖書の中で、今日の私たちにとって理解するのが難しい箇所の一つは、ヨシュア記から列王記、歴代誌に書かれたイスラエルによるカナン侵攻の記事ではないかと思います。カナンに住んでいた民族とおもに戦争によって土地を取り、イスラエルの各部族に領地を分割したことが書かれているからです。まさに、戦争の歴史です。これは今日でいう「聖戦」ではなく、神の民イスラエルであっても、戦いの歴史があったことをありのままに伝えている正直な記録であると理解しています。戦争を肯定しているのではなく、このような歴史があったことを示しているのであり、平和の君であるイエス様を知っている者として、このような戦争が今日も肯定されるのではありません。

本日のテキストは、カナンの地に入り、土地を分割してようやく戦いが終わった時、民の指導者であったヨシュアが、これから何を第一として過ごすのかを問うた場面です。彼の言い方は、ポストモダンの現代の言い方と同じだといえます。現代は、価値観が多様であり、自分の主義主張を他の人に押し付けることを嫌う時代です。しかし自分のことは、自分の物語としてしっかり表す時代でもあるのです。ヨシュアは「私と私の家とは、主なる神に従う」と自分の姿勢をはっきりとさせて、民に対しては「あなた方の仕えようとするものを、今日選ぶが良い」と言っているのです。もちろん、彼の願いは民が主なる神に仕えることを選び取ることでした。はたして彼らは、自分たちも主なる神に仕えると言うのですが、ヨシュアは彼らがやがて主なる神から離れてしまうことを知っていました。ここで民は、三度にわたって「主に仕えます」と言っています(18,21,24)。それでも、彼らは主を捨ててしまうのです。

これは、ペテロはイエス様を3度「そんな人は知らない」と否んだときに、鶏が鳴いたことを思い起こさせます。しかし復活の主は、ペテロに3度「あなたはわたしを愛しますか?」と聞いてくださいました。ペテロは、3度尋ねられたことに心を痛めるのですが、イエス様の深い大きな愛を知って、主に従うことを表明するのです。ペテロは弟子のひとりであるヨハネのことを気にしたのですが、イエスは「あなたはわたしに従いなさい」と言われ、彼自身がどのような態度で主に従おうとしているか、本当にイエス様に仕える者であるかを吟味させたのです。私たちの心の態度は、いかがでしょうか?

ヨシュアのごとく、主に仕えることを改めて表明し、その道を最後まで歩んでいきたいのです。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。マタイ6:24

2014年8月10日 (日)

武器を捨てよ  イザヤ2:1-5

2次世界大戦、太平洋戦争後、69年目の夏を迎えました。21世紀は科学が進歩し、快適で平和な時代になると思っていた子供の頃がありましたが、地球上には今なお人の命が奪われていくという争いがあり、進歩とともにかえって不都合なことも起きています。

教会に来て知ったゴスペルソングに、川岸に行こう、英語では“Down By the Riverside”という曲があります。歌詞の大意は、「剣と盾を捨てて川辺降ろう、戦うことはもう考えない、戦うことはもう止めた」というものです。この歌詞の出所は、本日のテキストであるイザヤ書なのです。1節:全ての国々がそこに流れてくる、4節:彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

しかし現実の世界は、武器を捨てるどころか、ますます武器を増やすことによって力をつけ、国や民族同士が争っています。軍事力をつけることが戦争の抑止になるのだ、といってこれを是としているのです。かつて自分が子供のころ、機関銃などの武器や軍艦、戦車、戦闘機はかっこいいものだと思っていました。特に戦車に試乗させてもらった時は、言いようのない興奮がありました。今考えると、実に浅はかだったと思います。今の時代は、戦争はゲームの中だけのバーチャルなものだという感覚、人を殺すことのできる武器を武器と思わない、そのようになってはいないでしょうか。オスプレイは、かっこいい!などと言っていられるのでしょうか。

およそ、人との争い、国との争いの種は、人の内にあるというのです。私たちの心の中に、人を傷つけ、殺してしまうような武器があるのです。

内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:2123)

ここからの解決なくして、どうして他の人と平和を保つことができるでしょうか。争いに満ちた闇のような世界から救い出し、平和の君として生まれてくださった方が、主イエスキリストです。イザヤは、救いの御子の誕生をはっきりと示した預言者でした。心の中にある武器を捨てる時、神様が招いてくださっている光の中を歩くものとなるのです。あなたの心にある武器を捨てるところから、平和の道へと続いていくのです。

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです── エペソ5:8,9


2014年8月 6日 (水)

セミ時雨の前に

 蝉時雨が、夏の暑さを切り裂くように聞こえてきます。

 8月2日の夜、セミが羽化する様子を見ました。真っ白のからだ、だんだんアブラゼミの色になっていきます。朝見ると、そこには抜け殻しかありませんでした。7年間の土の中にいて、地上でのいのちの営みは、わずか1週間くらいと言います。時雨の前に、土の中から這い上がってくる、懸命な営みがあるのですね。

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2014年8月 3日 (日)

人を生かすもの 2コリント3:1-11

 あなたの「座右の銘」は、何でしょうか。たとい短い言葉であっても、勇気づけられたり慰められたりします。逆に、言葉によって人は傷つき意気消沈してしまうこともあります。言葉は、とても不思議ですね。

 モーセが神から受け取った十の言葉をもとに、イスラエルの民を導く律法が神様から与えられました。時代がたつにつれて、律法の解釈や説明が人の手によって造られるようになり、イエス様の時代には毎日一つずつ戒めを守っても、一年間で全部守り行うことができないほど、多くの決め事ができたと言われています。どうも律法が本来持っていた目的から、ずれてきたようです。先にもまなんだように、イエス様は書かれた文字に縛られない、新しい生き方を人々に教えました。しかし律法を無視したわけではありませんでした。むしろ、律法を実現する方として来られたのでした。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)

 本日のテキストにある、「石の板にではなく、人の心の板に書かれた」という言葉、「文字は殺し、御霊は生かすからです」という表現、モーセの顔を人々が見つめることができなかったという記事は、彼が石の板に書かれた十の言葉を持って山を下りてきたことを思い起こさせています。そして、人を生かすものは、人間の言葉ではなく、聖霊に導かれた神様の言葉であることを、このように相反する二つのことを対比させることによって、明確に伝えているのです。律法を行うとすることによって、かえってつみ深い自分の姿を見せつけられます。しかしそのことによって、私たちの魂は真の救いを求めて、イエス様に導かれるのです。まさに、律法は私たちを神の御もとに導く、養育係でした。そして今、イエス様を信じる者は、聖霊によって導かれ、書かれた人の言葉でなく、心に刻まれた神様の言葉によって生きる者とされたのです。神様の言葉こそが、人を生かすもっとも大いなる座右の銘となるのです。

 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

ガラテヤ5:13,14

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