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2014年11月

2014年11月30日 (日)

待つことの祝福  2014.11.30 マルコ3:31-37

今年も、主イエスキリストのご降誕をお祝いする季節となりました。

本日は、待降節第1週目の聖日です。教会歴に従って多くの教会で開かれる聖書箇所の一つが、マルコ13章、イエス様の再臨に関するご自身のみ言葉です。マルコの福音書が書かれた年代については諸説ありますが、もし西暦70年頃としたら、イスラエルの民は国家の滅亡と神殿の崩壊を経験した時となります。ここに書かれていることは、読者にとって非常にリアルなことであったはずです。3年前の大きな震災と原発事故を経験した私たちにとっても、無関心でいられる箇所ではありません。

さて、待降節は主イエスキリストの誕生を待ち望む期間です。すでにイエス様の誕生を知っている私たちが、待降節を過ごす、救い主の誕生を待つということは、どのような意味があるのでしょうか。
 まず第一は、イエス誕生前の人たちの救い主の出現を待ち望んでいた気持ち、思いと一つになるということです。イエス様の生涯をたどる心の巡礼において、はじめの一歩を同じように踏み出す感じです。第二は、本日のみ言葉にあるように、主イエス様が再びおいでになることを待ち望む者として整えられることです。終末の時代、私たちが見て暮らしているこの世界のあらゆるものは、崩壊するでしょう。しかしそのようなことが起こる日が来るからと言って、失望したり、慌てたりする必要はありません。旅に出たご主人がいつ帰ってきても良いように備えるように、日々の生活を淡々と送っていればよいのです。ポイントは、主イエスに対する心の目を開いていることです。そしてもう一つは、天国を待ち望む日々を送ることです。誰でも、地上の生涯を終える日がやってきます。死について考えたり、死後の世界を思いめぐらすことがあるでしょう。その時あなたは不安になりますか?わからないのだから、途中でそんなことを考えるのはやめだ、と言って投げ出してしまいますか?あるいは、天国に行くことのみが今の望みで、早くお迎えが来ることを夢見て、現実の生活がなおざりになっていますか?天国は、地上の生活と実はつながっているのです。

今望みのある生活を送っていなければ、天国はつまらないところになるかもしれません。待つことの祝福は、救いの御子の誕生を待ち望みつつ、天国を望む生活の中にあるのです。

 

 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主である
  キリスト・ イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとした
  からです。   テトス
2:13


2014年11月23日 (日)

まことの王を迎える 1サムエル8:1-9 2014.11.23

しばらく前から本日の説教を準備していたのですが、急に衆議院解散、12月14日が投票日、ということになりました。イスラエルの新しい国のかたちが決まっていく聖書箇所を開く時が、私たちの国のこれからのかたちを決める大切な時期に重なったことに、身の引き締まる思いです。
 サムエル記は、士師の時代から、王が治める時代に移り変わっていたことを記しています。イスラエルの民は、自分たちを治める王を求めました。その理由は、ペリシテ人の脅威に対抗するため、強い国になる必要があり、サムエルの息子たちはなぜかエリの子供たちのように士師としてふさわしくない人物だったからです。
 長老たちの求めを聞いたサムエルは、これに反対しました。主なる神こそが民を治める方であり、神よりも人に信頼を置くようになる危険があったからです。また、王制には限界があり、やがて民を搾取することになると知っていたからです(11-18)。ところが神様はサムエルに、彼らの訴えを聞き入れたことを告げるのです。
 なぜ神様は、国に王を立てることを認めたのでしょうか。その理由を神様の言われた警告の中に見ることができるでしょう(8)。この後初代の王としてサウルが立てられ、ダビデ、ソロモンとイスラエルの王が国を支配し、繁栄を遂げていきます。しかしソロモンの死後国は南と北に分裂し、やがてその国も次々に滅んでしまい、バビロンに捕囚の民として連れていかれます。神様より、人間の王を信頼したことの結末です。
 それからイスラエルの物語は、イエスキリストの誕生へと続いていくのです。イエスは救い主として、また、王として誕生されます。地上の王を求めていた民はやがてイエスに失望し、十字架に付けてしまいます。イエスキリストは、この世の地上にある政治的な支配者ではなく、私たちの罪を贖う方であるとともに、神の国を生きる者の王だったのです。
 来聖日は、待降節第一週目です。まことの王として来られたイエス様を、迎える備えをする日の始まりです。私たちの国のかたちがどのようになっていくにしても、イエスを王とし、この方にお仕えする思いを忘れないようにしなければなりません。

黙示15:3,4

彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」

 

2014年11月16日 (日)

聖書を一緒に読む祝福 2014年11月16日

 本日の説教は、中央会堂でした。基本、2日と同じですので、そちらをご覧ください。その代わりに、私の信仰生活の原点ともいえる、聖研のお話しです。

 
 へブル10:25
  ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

主にある兄弟姉妹に知っていただきたいこと、祈っていただきたいことを、週報を通じてお伝えするコーナーを設けることとなりました。神様の家族の一員として、また信仰生活の基本を身に着ける一助になることを願っています。
 私の信仰生活の実際面は、礼拝と祈り会だけでなく、兄弟姉妹とのみ言葉の分かち合いによってなされたことが多くありました。大学時代に救われた小林兄と一緒に、現在の丘の上会堂の前身となる、東岩槻集会所に二人で住まわせていただきました(112日「伝道往来」参照)。大人も加わって聖書研究会が始まり、高橋先生が指導されました。しかしいつのころからか青年だけになり、箴言を毎週少しずつ読みながら分かち合うという、いわばグループ聖研になっていきました。しかも集まっているのは男性だけで、他教会の兄弟が加わることもありました。そのような中で救われる人が起こされ、今でも主にある友情()が続いています。
 ある時、一人の女性が加わりました。皆で彼女のことを「シンデレラガール」と呼んだのは、住み込み生活のために門限があったからです。彼女を参加者の車で送ることになったのですが、異性とふたりっきりになってはいけないから必ず誰か同乗する、その人が来るときには女性のクリスチャンにも加わってもらおう、ということになりました。このようなことは、箴言の学びから導かれたことで、一つのルールとなったのです。その女性は石原姉で、後にご両親も信仰に導かれました。
 愚かなことや、失敗したこともありました。しかし、小さな集まりで聖書を開き互いに分かち合う中で、いろいろ教えられていったのです。信仰生活の歩みは、ここから始まったといえるでしょう。主にある兄弟姉妹が集い、み言葉が開かれるとき、イエス様もまた共にいてくださると感じるのです。

2014年11月 7日 (金)

救いの完成  マルコ10:13-16 2014年11月9日

古今東西、幼子や子供たちの成長を祝い、喜びを分かち合う行事があると思います。日本では、1115日は「七五三」で、子供の成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事となっています。また国連では、子どもたちの相互理解と福祉を増進させることを目的として「世界こども日」が制定され、1120日となっています。これとは別に、各国が独自に子供の日を定めることが推奨され、私たちの国では、ご存知のように55日が「子供の日」となっています。

聖書の中にも、イエス様が幼子や子供たちを祝福した様子が描かれています。あるいは、子供たちを通して、傲慢な大人たちを戒め、仕えることの大切さを語ることも描かれています。
 本日の聖書箇所は、子供たちの祝福を願ってイエス様に触ってもらおうとした人たち、たぶん子供たちの親でしょう、が弟子たちによって押しとどめられている場面から始まります。その様子を見て、イエス様は「憤った」のです。悲しまれたのです。現在も、虐待や貧困などによって不幸な環境に置かれている子供たちがたくさんいます。そのような様子をイエス様がご覧になったら、この時と同じように大いに憤られるのではないでしょうか。
「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」(マタイ18:6
 幼子や子供たちを愛し育てることは、大人たちの責任でしょう。教会の大切な働きです。ここでイエス様の語られたことは、子供のようにならなければ、神の国を受け入れ、そこに入ることができないということです。これは、黙想すべき言葉ですね。イエス様を信じて、罪が赦されて天国行きが約束されたのであ~良かった、という話ではないのです。信仰生活は、旅路のようなものです。良い天気の日もあれば、荒れた日もあります。楽に進める道があれば、難度海を行かなくてはならないようなこともあります。
イエス様によって与えられた救いは、私たちの地上の生活の歩みによって、完成するのです。その時まで、私たちの歩みを止めてはいけないのです。イエス様の祝福に与り、他の人を祝福する生涯を送りたいものです。

ピリピ2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。


2014年11月 2日 (日)

神のことばに聴く  2014.11.2

少年サムエルといえば、ひざまづいて神様の語りかけを聞く場面を思い起こす方もあるでしょう。市内のある保育園の玄関に、そこはキリスト教主義の保育園ではないのですが、神の語りかけを聞くサムエルの絵が掲げられていました。聞けば、卒園生の保護者から送られたもので、とても良いと感じたので、飾ったとのことでした。
 祭司エリに仕えていたサムエルは、ある晩寝床についていると、自分の名を呼ぶ声で目を覚まします。エリに呼ばれたと思ったのですが、実は神様が直接サムエルに語っておられたのです。そのことを知ったサムエルは「しもべはここにおります、お語りください」と言って、神様のことばに聴く姿勢を取ったのです。神様の語った内容は、なんと祭司エリの家が滅ぼされるということでした。
 この当時、イスラエルの民はペリシテ人と戦っていました。彼らはペリシテ人を打ち破るために、契約の箱を前線に近いところに持ってきたのですが、その箱がペリシテ人に奪われ、エリの二人の息子も戦死してしまったのです。この訃報を聞いたエリと嫁のピネハスは死んでしました。死の間際で産み落とした子はイ・カボデ、栄光はイスラエルから去ったという名前が付けられてしまうほど、悲惨なできごとでした。神様の語られた言葉が、実現したのです。
 契約の箱を奪ったペリシテ人の地では、彼らの神殿の本尊が倒れ、その箱が移されたところでは、民が重い腫物に打たれるという災いが起きたのです。その災いから逃れるため、彼らは罪過のいけにえをつけてそれをイスラエル人の地に戻しました。イスラエル人は契約の箱が戻ったことを喜んだのですが、その箱の中を勝手に見たために、多くの人が災いを被ったのです。契約の箱は、もともと十戒が納められ、民を祝福への導くはずのものでした。しかしこの時、契約の箱のあるところでは、大きな災いが起こったのです。
 この物語は、神のことばがあっても、神様に聞き従う心が本当になければ、かえって災いのもととなることを示しています。聴くとは、聞いたことをしっかり自分のものとして従うことです。聞いても実行しないならば、聞かない方が良かったでしょう。かえって、災いです。信仰生活は、何か立派な良い行いをすることから始まるのではなく、神のことばに聴くことから始まるのです。

ローマ 10:17
  そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。


 

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