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2014年12月

2014年12月28日 (日)

主にささげる生涯 ルカ2:22-40  2014.12.28

マリヤが男子を産んでから8日目に、この幼子は割礼を施され、イエスという名前で呼ばれるようになりました。そして律法による清めの期間が満ちた時、イエスは両親よってエルサレムに連れていかれ、主なる神様に捧げられました。神が人となってくださった、その人としての生涯の始まりです。イエスは、ユダヤ人男子として社会の中で成長していかれました。
 人としてのイエス様は、両親によって主にささげられました。イエス様は神様でもあるのですが、肉の両親によって主なる神様に捧げられた、ということは大きなポイントだと思います。ささげられることがなければ、実は神様に用いられることはなかったのです。
 サムエル記に、ハンナがようやく与えられた男子を、主にささげるためにエリのもとを訪れるという物語があります。サムエルです。彼は最後の士師として、大切な働きをする人物となっていきます。イエス様は、自らささげられたものとしての生涯を送りました。
「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです(へブル7:27)。」
 しかしこのようなことは、なかなかできないことです。ペテロは、自分の命を捨ててでもイエス様に従うとその決意のほどを告白しました。しかし彼は、三度もイエス様を否み、イエス様に従い続けることはできませんでした。しかし後に悔い改め、主のために生涯をささげることになったのは、皆様もご存知の通りです。なぜ主に自分の生涯をささげることができないのか。それは、イエス様よりも自分が一番になってしまうからです。
「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません(ピリピ2:21)。」
 この一年、あなたは何のために生きてきましたか。一度きりの生涯を、誰のために捧げますか?自分のためではなく、私たちを愛してくださり、そして新しい年も導てくださる主にささげる生涯を、送りたいものです。

 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。ローマ12:1


 

2014年12月27日 (土)

第4回市民講座 

第4回市民講座、2014年1月28日午前10時、ふれあいキューブ4階の第1会議室です。今回のテーマは、茶室如庵を考案した小田有楽斎。そしてゲストは、この街を知りつくした、春日部ボランティアガイドさんのお話しです。

こちらからご覧ください→「shiminkouza_4.pdf」

2014年12月21日 (日)

下り、引き上げてくださる方 ルカ1:26-38 2014.12.21

レオナルドダヴィンチが描いている「受胎告知」で知られているように、ヨセフと婚約中のマリヤは、聖霊によって身ごもったことを天使ガブリエルによって告げられます。まだ一緒になっていないマリヤにとっては、これはありえないことでした。また、もしこのことが他の人に知られたなら、自分は姦淫の罪を犯したということで石打にされるということを恐れたでしょう。いずれにせよ、マリヤにとっては大迷惑な告知でした。しかしみ使いは「おめでとう、マリヤ」と言ったのです。アヴェマリヤ、ですね。彼女は、天使の語った言葉を神様のことばとしてすべてを受け止めました。
 この出来事の後、マリヤはエリサベツのもとを訪ね、子供のできないと思われていた彼女が身ごもっていることを知り、思わず声を上げるのです。ルカ1:4655に書かれているのは、マリヤの賛歌「マグニフィカト」と言われています。受胎告知のマリヤのことばと、このマグニフィカトには、共通した思いがあります。それは、「上にいる神が低いところにいる私に目をかけてくださり、救い主の母となる光栄に引き上げてくださった」ということです。まさに、クリスマスの神秘を悟ったマリヤがここにいるのです。
 カトリック教会では、戦国武将でキリシタン大名であった高山右近が、来年福者に列福されることになっています。最近では、マスコミでも取り上げられ、右近に関する書物も出版されています。その中で今年発行された「ユスト高山右近」という本があります。そのサブタイトルは、「いま降りて行く人へ」とありました。戦国の世は、競い合う時代で、武士が一番偉いとされていました。そのような時代にあって、右近親子は家臣や領民の死を悼んで、棺を共に担うことをキリストの心で行った人たちでした。またこの当時来日した宣教師は、ミゼルコルジアという慈悲を行う組を組織し、病人や貧しい人たちを助け乍ら福音を伝えていったのです。今日の福祉活動の始まりと言っていいでしょう。
 高いところにいる神が私たちのところに降りて来てくださった、そして私たちを神の子として引き上げてくださった。これが、主のご降誕、クリスマスの出来事です。私たちも隣人のところに降りて行き、主にあって引き上げる働きをしてまいりたいと思います。

ピリピ2:6-11 
  キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の+姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。



2014年12月14日 (日)

人となられた神を見よ ヨハネ1:14-14 2014.12.14

主のご降誕、クリスマスとは、イエスキリストの誕生のことです。神学的な意味は、ことば(ロゴス)である神が人となってこの地上に住んでくださった、ということです。「受肉」といいます。
 ヨハネはイエス誕生の物語を描く代わりに、その意味を書き表しました。神が私たちと同じ人間となるというのは、考えらなくもないようなことですが、神秘に属することだと思います。多くの世界にある神々の物語は、人間生活の延長のように感じられますが、受肉とはそのようなものではありません。
 神が人となるという神秘を、一つの詩で表した作品があり、カンタータ形式の歌曲にもなりました。「或るクリスマスの出来事」というタイトルで、CDによって聴くことができます。
 神が人となってくださったので、罪の中に縛られている人間を救ってくださることができます。イエス様は神ですが、その生涯は、人としての苦しみや悲しみを経験し、ついには母よりも先に罪人として処刑されるという、最も大きな恥を忍ばれました。しかしこの方は、恵みと真に満ちておられたのです。人は律法を守ることができず、律法によっては罪の意識が増すだけです。そんな私たちのために、律法を守り行うことによってではなく、ただイエス様を信じることによって救われるという道を開いてくださいました。まさに、これが恵みなのです。その道を開いたイエス様自身が真理であり、父なる神様に至る道そのものでした。

ヨハネ 14:6
  イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
  わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 神様は霊ですから、肉眼によってみることや、理屈によって知ることはできません。しかし、イエス様の生涯を聖書から学び、心の巡礼としてイエス様の生涯を追っていくとき、神様を見ることができるのです。私たちの日常生活の中に、神様のおられることを心から知ることができるのです。
 私は茶道の稽古に通っていますが、学びの基本姿勢は先生や人の点前を見る、ということです。しっかり見ていないと、自分が点前座に座った時、同じようにできないのです。見ているようで実は何も見ていないということを、感じさせられます。世の人々は、イエス様のことを知っています。しかしその本当の姿を見ることができているでしょうか。誕生から始まるイエス様の生涯を自分の物語と重ね合わせることによって、神となってくださったお方をしっかりと見て過ごしましょう。

 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。へブル12:2


 

2014年12月 7日 (日)

福音のはじめ  マルコ1:1-15  2014.12.7

英語のAdventは、もともと「到来」という意味です。キリスト教歴でこの言葉は、イエス様のご降誕を待ち望む意味で使われています。今日はその意味で使われているアドベント、待降節の第2週目の主日(聖日)です。
 長い歴史の中で、イスラエルの民は、自分たちを救い出してくれるメシヤ、救世主を待ち望んでいました。救いの主の誕生は預言されており、その実現がイエスキリストの誕生です。イエス様の救い主としての働きは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けた時に始まります。これを、イエスキリストの公生涯と呼んでいます。福音を宣べ伝え、弟子たちを遣わす働きで、その期間はわずか3年余りでした。その公生涯の最初のできごとは、洗礼を受けた後、悪魔の試みを受けるために荒野に追いやられたことです。まさに、これからどうなるのか思いやられるような出来事です。イエス様を信じ、洗礼を受けた人もそれですべてがめでたしとはなりません。いろいろな辛い出来事が起きたり、信仰を試みられるようなことを経験するでしょう。そんな時でも、イエス様を見守るようにみ使いが仕えていたように、今はイエス様が見守って仕えてくださっていることを、心に留めてほしいですね。
 福音とは、救い主イエスによる人を罪から解放するという、喜びのニュースです。イエス様誕生の出来事を羊飼いたちが聞いたように、喜びの知らせです(ルカ2:10)。ここから福音が始まり、イエス様の公生涯によって、福音は多くの人たちに届けられるようになったのです。しかし福音は、実はもっと昔から始まっていたのです。
 先週「はやぶさ2号」が打ち上げられ、生命や地球の起源を探る旅に出ていっています。とても興味深いことで、6年後の帰還を楽しみにしています。福音の始まりは、時空を超え、私たちが想像することすらできない時に起きているのです。これは、神様の私たちに対する大きな愛の表れです。宇宙の中のホントに小さな存在に過ぎない私たちを、神様は永遠の昔から覚えていてくださり、今この時代に生かしてくださっているのです。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。エペソ1:4,5

Christmas1

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